精神分析で言うところの無意識の「抵抗と防衛」と憑依・心霊現象

【精神分析で言うところの無意識の「抵抗と防衛」と憑依・心霊現象】

精神分析の言葉としての、「抵抗・防衛」については高校の倫理社会やもしかすると保健体育の教科書にも載っているし、大学の教養課程程度でも臨床心理などの科目を取っていれば勉強したはずで、知識としては基礎の基礎である。

もちろん精神科医も「抵抗・防衛」という言葉は知っているし、実際の理解が伴ってはおらず、精神分析に反感を持つ人が殆であるが、一応知識はあるはずである。

私は子供の頃から知識があったわけではないが、何となくそういう問題に気づいていた。
記憶はおぼろげだが、方しか中学2年の時に保険体育の教科書に書いてあり(他の本だったかかも知れない)、膝を叩いて「こんなすごいこと教えて良いのかっ!文部省はどうなっとる?学校教育も捨てたものではないか?」と思った。
その翌年の中学3年の時には、本屋で中公文庫のフロイトの「精神分析入門」を発見し食い入るようにむさぼり読んだのだが。もう半世紀近く前になる。

簡単に言えば、「抵抗」とは精神的問題を改善することや健康に近づくこと、良くなることをむしろ拒否する、自分にとって役立つ人を否定・非難するなどである。

「防衛」はコインの裏表みたいなもので「抵抗」と同様ではあるが、自分の良くないところ、病理性が苦悩をもたらしているのにそれを手放そうとはせず、むしろ頑なに守ろう、防衛しようとすることである。

多分に無意識にやっていることなので、それに気づく必要もあるが、それ以前に中学の頃の自分のように、いくらかなりとも自覚もあるはずなので、精神病理克服、精神の健康のためには、なかなか受け入れ難くとも洞察・理解し、克服すべき課題と考え実践する必要がある。

この「抵抗・防衛」の問題は私が提唱するセルフ・セラピーの最初にして最大の問題でもある。いくら良いこと尽くめの治療法であっても、いや、だからこそ、やっかいな問題になる。
治療法の問題ではなく、精神病理の問題であり、人間とはそういうものだとも言えるけど。

とりあえず、知識だけでも「抵抗・防衛」という概念が広まらなければ、このセルフ・セラピーの普及も難しいかもしれず、その意味で、公表するのは時期尚早かも?とも思っている。

ある患者さんのこと

40代前半だが高校入学して間もなく、ちょっとしたイジメというよりも、からかい程度のことはあったようだが、神経症的症状がひどくなり不登校になり、そのまま辞めて以来学校にも行かず仕事も殆どしていない

以来、ずっとほぼ引きこもりだが、病院とちょっとした買い物くらいは外出している。
バイトもごく短期はしたことがあるようたが続かず、高卒認定試験は難なく取れており、知的には低いという感じではない。

病院はもう20年以上も中断したことはあるが受診しており、薬では良くならない、行ってもしょうがないとは一応分かっている。不思議なことに長年薬を飲んでもけっこう大丈夫なことだ。
ときに思うことだけど人間ってけっこう頑丈だ。もちろん人によるし、肝機能の解毒作用が強いのかもしれない。

さすがに副作用や弊害はだんだん大きくなり本人も気づいてはいるようで、薬もだいぶ減らしてはいるが、変更した薬の副作用で太ったことを、本人は一番それを気にしており、今まで外に出ていた買い物にも行かなくなった。

よくあることだが、引きこもりの人に限らず、パニック障害や社会不安障害だとして外出できないという人も、病院だけは欠かさず行く人が多い。
普通はむしろ病院に行くのは気が重い、億劫だと思う人が多いはずで、いわゆる病院嫌いの人も少なくないけど。

行ってもしょうがいないことはわかりきっているのに。
これもまた、「抵抗・防衛」の表れである。一見、治療に積極的なようでむしろ逆になっている。良くならないことを望むために病院に行く。

その人の場合、自分は軽度の方だし、他の患者に気を使うのがバカバカしいのでデイケアは辞めたという。もっとバカバカしいのは、受診服薬のはずで、何にしても自分次第で利用の使用もあるかと思うけど。

なぜ「抵抗・防衛」があるのか?その要因と背景は?

親が子供を病気にするだけではなく、お前は私(親)の養育や接し方が悪いと思ってはいけない、病気のままでいなくてはいけない、良くなってはいけない、と言ったメッセージが強く含まれており、無意識にという無自覚の対応洗脳というか催眠になっている。

無自覚だからこそ対象化、吟味されず、罪悪感もなく、抑制や歯止めも聞かないため強力な影響力を持ちやすい。
それもまた親の「抵抗・防衛」という面があるが。

どんな人でも「抵抗・防衛」はあるが、そうした傾向が強い人ほど強い、もしくは大きく、それほどでもない人もいる。

その患者さんは当所に来て治療を受けるときに「私は自分が良くなりたくない、という気もあると思う」と言う。
通俗的とは言えメンタルヘルスに関するような本は随分読んでおり、それなりに知識はあるようだ。

「精神分析の用語では『抵抗・防衛』と言うけど、とりあえずそれが分かっているだけでも良い。そういう葛藤があるのも当然だが、あせらず徐々に克服していけば良い」などと言ったのだが…

実は意味が違っていることに気づいた。

彼女の父親はもう引退しているが、誰もが知っている有名企業の元重役で、退職金や年金も多くて裕福である。障害年金などもらわなくても金銭的には問題なく、仕事もしたくないし、このまま引きこもりでもそんなに苦痛でもなく、このままやっていければ良い、ということだった。

先生は有能で治療も良いことは認めるけど、私はそんなに良くなりたいわけではないし、治療に積極的に取組む気はない、という意味である。
要するに「抵抗・防衛」を克服すべき問題とは考えず、自分の病理や現状を正当化することを考えている。

彼女の弟も高給取りである。親が死んだら弟が面倒を見てくれると言うが、結婚して子供もできたらどうか?嫁さんだってそうそう納得しないのではないか?と思うのだが。

その人の父親は先程も書いたように、大した学歴もなかったのに某有名企業で出世した人だが…
働き盛りの頃に、さんざん部下にパワハラをやっており、それでむしろ「業績を上げた」人らしい。

今なら部下の多くに訴えられて裁判沙汰の嵐になるはずだが、それ以前に、辞めざるを得なくなるか自粛するだろうけど。
当時だから許された、というわけではないが、むしろ出世の踏み台にしたようだ。

当然、部下からは恨みをかう。そのパワハラの嵐がひどかった頃が、彼女が発症というより不登校・引きこもりになった時期と重なっているようだ。
その後も恨みつらみは当然続いたはずで、今でも続いてるかと思う。

話を聞いても、彼女には不登校になる特段の理由や要因があったわけではなく、幼児期からの親の養育、対応も問題ありだろうが、心理的虐待と言うほどでもなさそうで、そんなに重症になる要因になるトラウマがあったとは思えない。

精神疾患としては軽度でも、今となっては不登校になり、そのまま引きこもりになったので、社会生活の経験はあまりに乏しいため、精神病理的には軽症でも、「社会的重症化、障害者化」したような感じである。
本人もそんなに自分が重症とは思えないようであるが、引きこもりから抜け出せない理由も良くわかっておらず、あまり自覚がない。
病院と買い物は特に抵抗もなく行ってるわけだし。

親がパワハラなどやっていれば、子供が知らなくても、そのこと自体が無意識のトラウマになる。実は、薄々とは気づいているケースももちろん多い。

生霊を飛ばされた?心霊現象、憑依現象

精神病理学的にはこのような言葉を使うべきではないが、いわゆる「生霊を飛ばされ憑依した」というやつである。
本人がそう言ってたわけではなく、ハッキリした認識もないが、それを納得しているようでもある。
父親が罪深いことをしたので自分が犠牲になるのはやむを得ない、というように。

オカルト的なことは私も嫌いだが、そのようにしか考えられない現象は確かにある。

心霊現象とされるようなオカルト的なことも、それなりの理由や根拠、背景があり、それを無視し、荒唐無稽なことと考えてはむしろ精神疾患は理解できず対処もできない。
「脳の病気」という誤解、信仰もとけず無駄なこと有害なことをやり続けてしまう。

心霊現象といったことも精神分析学的には無意識の心理として考えるべきで、同一の現象を別な見方をしているとも言える。
もちろん精神分析の方がはるかに学問的広がりも発展性もあり、臨床的、実践的にも有用だからこそ、私も心霊療法家ではなく(広義の)精神分析療法家となったのだが。
もっともオカルト的なことは嫌いだし、霊だの何だのといったことも嫌いだし、というよりよくわからないので避けていた。

やはり人の恨みをかうようなことはすべきではない。自分には返ってこなくても、自分の愛する者に影響してしまう。

「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」 魯迅

「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」 魯迅

それなりに広まっている言葉ですが、これはどういう意味でしょうか?

私は精神病が酷くて本もほとんど読めませんでしたが、この言葉は高校時代から知っていました。友人の家の板書にこの言葉が書かれており、部屋に掲げられていたからです。
「絶望ノ虚妄ナルハ希望ト相同ジナリ」と書いてあった気もしますが、漢詩だったかもしれません。

友人の父親は文学者で、フランス文学やイタリア文学の翻訳なども多数手がけていました。二十年くらい前にベストセラーになった「他人をほめる人、けなす人」という本も翻訳しています。
有名な書家だったか彫刻家の人に彫ってもらったそうです。

これは「絶望が虚妄であるのは、まさに希望であることと同じだ」と言う意味なのか「絶望が虚妄であるのは、まさに希望もまた虚妄であることと同じだ」のどちらだろうか?と長年疑問に思っていました。

前者であれば、「絶望なんて虚妄なんだから、絶望するなよ。希望は(虚妄ではないから)希望を持ちなよ」、とか、「絶望が虚妄だということを知れば希望が持てる」、などと言ったことも考えられます。

後者と考えると、「希望を持つことはイイことかも知れないけど、虚妄なんだから浮かれてはいけない、冷静になるべきだ」、「人間の想念なんて虚妄にすぎない、思いや感情にとらわれるものではない」、といったことなどが考えられます。

しかし、深く深刻な精神疾患に陥った人は、「希望なんて虚妄だ」とは考えられても、「絶望なんて虚妄だ」とはとうてい考えられず、希望は持てないのではないでしょうか。

「虚妄」こそがまさに実体というべきでしょうか?
どちらかと言えば、私はそのまさに「虚妄」を対象にしているわけです。

「虚妄」なんだから無いじゃないか、と考えては何の進歩や解決にもならず、少なくとも「虚妄」には根拠があり対処も可能と考えなければ、私の場合は仕事にもなりません。実際に対処可能で成果も大いに出せています。

要するに「無意識」は「ある」ということにも通じるかもしれません。
無意識のことは子供の頃から何となく無意識は「ある」とは思っていましたが、中学のとき(たぶん)保健体育の教科書に防衛機制のことが書いてあるのを見たり、中学3年の時にフロイトの「精神分析入門」を読んで確信しました。頭では理解していたとも言えます。

とは言え、実際に無意識のことがわかったのは、大学4年の時に元師匠となる人に、このセルフ・セラピーの基になるセラピーを受けた時です。
知識はあってもその時の体験は、眼からウロコなんてもんじゃなかったです。このブログに書いてあることの殆どは、その時に得たことかもしれません。

精神分析に詳しい人でも、もしかすると精神分析学者でも、無意識のことは実際にはわかっていないかもしれません。

私には物質が実体であるよりも、形而上的なこと、メタ・フィジカルなこと、もしくは精神こそが実体であるように思えてならないのです。「実体」という言葉が適切かどうかはわかりませんが。

最近マルクス・ガブリエルが流行っており、物質主義、神経中心主義を批判しています。俺は昔からこれが言いたかったんだ!なんて思いながら読んでいますけど、「私は『脳』ではない」は面白いです。

予知能力はあるのか?スーパー・ボランティアの尾畠春夫さんと預知能力

2018年8月、山口県の周防大島で2歳の藤本理稀ちゃんという男の子が行方不明となり、3日がたっても発見されず、絶望視されだした頃、スーパー・ボランティアの尾畠春夫さんに発見されたことがニュースになった。

それから2年、もう皆忘れているかもしれないけど、そのことについて書いてみたい。私はけっこうしつこく、皆が忘れた頃にブログを書くのだ。彼は「私なんて一過性のもの。日本人は熱しやすく冷めやすい。自分のことなどすぐ忘れる。」とも言っているけど私はけっこうしつこいのだ。
ちなみにユーザーの使用頻度によって、どんどん学習するはずのGOOGLE日本語入力では「尾畠」は出てこない。尾畑では検索できないので、実際に忘却が進行しているようだ。「理稀」も出てこないけど、これは仕方ないか。

同じ頃、豊田真由子のパワハラが問題になり、その前年の2017年の夏には松居一代のブログとYOU TUBE動画が話題になったが、そのことについてもいずれ書くつもり。いずれもその時に書こうと思いつつ、書いていなかったし精神医学的には重要なテーマだが、そのような観点で書いた記事は全く見たことがないので。精神科医には理解が難しいのだと思う。

尾畠さんは、行方不明になった子供の家族に対ても「私が抱きしめて直にお渡しします」と約束し、探し始めてからまっすぐに山の方に登り、3日100人掛かりでも発見されなかった男の子を30分もかからず発見して戻ってきた。

いてもたってもおられず、捜索開始より1時間ほど前に独りで捜索を始め、マスコミにも「早く出たからって、法律に反するわけではないからな」「昨夜寝ていたら、今日は「理稀ちゃんに会えそうな気がしたから」などと答えており、少なくともこのことに関しては予知能力のようなものが働いていたと言えるだろう。もちろん長年の経験の裏打ちもあってのことだが。

奇跡的とも言われ賞賛されたが、でもこのことはあまり話題にならなかった。
皆、予知能力があったら良いと思うでしょ?でも否定しているのかな?

予知能力があり(ま、一応ね)、その開発方法を知っている俺からすれば、これは不思議なことでも何でもなく、予知能力はあるか?と聞かれれば、一応あるとしか言いようがない。

ではどうしたら開発できたのか?ということに先に応えておきましょう。このセルセラをやったからです。実際に患者さんには、予知能力みたいなのが開発されたとか言う人もけっこう多い。
そうでなくても、運が良くなったとか。小田急線の厚木駅で待っていると急行が通り過ぎてしまい、その後に来る普通に乗っても次の海老名駅では追いつかず乗れないので、いつも悔しい思いをしていたけど、この治療で良くなったら不思議とタイミングよく電車が来るようになった、「先生が電車を操作してるのか?と思ったりして。まさかね」とか。
そういうことを言う人はよくいるけど、これは私自身が体験したことでもある。
「無意識は何でも知っている?」ホントか?

このセルセラはそんなに時間をかけなくても、短期で随分効果がありますが、やればやっただけ良いようで、人間上には上があるみたいです。少なくとも限界はなさそう。
というわけで、調子が良い時にかなり時間をかけてやったことがある。
そうすると、なぜか予知能力も亢進するみたいなのだ。
そういう体験をしたことは何度もあるけど、よく覚えているのは。

リハビリの専門学生時代、寮にいたのだが、ある日の日曜日、リハビリの学校同士(といってもその頃は関東全域でも4~5校しか無い)でサッカーの大会があるということで、出場する人と応援する女性でマイクロバスを借りて行くことになった。
その日の朝、わかったのだけど「必ず事故になる」
バスに乗り込んでいく友人たちを見ながら、止めようかどうかずいぶん迷ったのだが、そんな根拠もないことで止めるわけにもいかないし、皆も言うことは聞かないだろう。しかし、「でも、たぶんそんなことは無いだろう」という考えさえ浮かんでこないのだ。
結局、冷静に考えたら、大したことはないだろうと思えたので何も言わず、気にしないことにした。

果たして事故は起こった。といっても、追突されただけで、運転者はスターティングメンバーから外れて事故に対処し、皆は電車やバスを使って試合は問題なく行われたと聞く。
その日、私は暇だったのだが、今日は必ず警察に捕まるということが浮かんできた。
しかし、用事を思い出したのだ。何だったか憶えていないので、たいしたことではないけど、今日やっておかなくては後でちょっとマズい、というようなことだったと思う。

で、自分の予知を試すような気も少しあって、単車でゆっくり慎重にでかけた。これで捕まるわけないよな、とは少し思った。私は元々慎重に走るし、無事故無違反であった。用事を済ませて、その予知のことはすっかり忘れてしまったと思う。

果たして、通りを曲がった所に警察がいて呼び止められた。そこは観光地なので「日曜休日に限りバスとタクシー以外は右折禁止」という変な交差点、当時はまだ土曜日は休日ではない。
そこはたまにしか通らないし、何となく規制があることは知っていたのだが、日曜日に通ることはなく、曲がって行くタクシーの後にくっついてそのまま曲がってしまったのだ。
警察もそこにたまたまいたと感じで、その交差点で取り締まっていたのではなさそうだったけど、見過ごすわけにはいかない、アンタ運が悪いねという感じだった。

当時、付き合ってはいないが好きな女性がいて、バンドなども一緒にやっておりけっこう仲は良かった。その人は別な先輩と付き合っていたので断念したのだが…
その時にその女性がある病気になることがわかった。それほど珍しくもなくありふれた病気でもないが、その病名までわかった。その時はそんな病気自体、知っていたわけでもないのに。時期はほぼ1年後だが、それもわかった。
もちろんそのことは誰にも言わない。言っても防げるわけでも対処できるわけでもないし。

果たして結局、その女性はその病気になり手術したり、結局留年したが卒業はできなかった。今でも元気でいるはずだけど。
そういうことは何度もあった。

昔、ある知人が競馬に凝っていて、と言っても馬券は殆ど買わないのだが、その人が言うには「全く素人でも3年も研究すれば、かなりの確率で当てることは難しくない。その予測どおりに買えば儲かるはずだけど、買っても当たらない。純粋に当てるだけなら難しくないけど、儲けようとしたらその時点でダメ」などと言っており、なるほどそういうもんだな、と思ったことがある。
競輪・競馬の予想屋が成り立つのもそういうことだろう。

かく言う私もパチンコでかなりの予測ができるようになったが、そうなった頃はもう全くやる気がしなくなり、35年前に大勝ちしてから1度もやっていない。その後は負けるとしか思えないし。

何となく思うのだけど、インテリや知的な人はギャンブルには向かない。動物的な勘が鋭くなくてはダメだと思う。私の知っている人で、大学教授でありながらパチンコが好きで負けてばかりいるのにやめられない人がいる。東京の資産家の師弟で不動産関係など、かなり裕福で何もしなくても収入も入ってくるようだが。

どうも言えることは、純粋でなければダメということである。尾畠さんは「もし見つからなかったらどうしよう」とか、「あんなこと言って、見つからなかったら両親に申し訳ない」などといった「邪念」さえ湧いてこないほど、純粋に見つけたい、会いたい、会えるはずと思っていたに違いない。
それは私の経験からも言える。大した成果を得ることができないのは私のレベルが低いからだろう。

しかし予知能力は役に立つのか?確かに尾畠さんの場合は役に立ったと言える。尾畠さんにとってではなく、行方不明となった男の子と家族にとって、である。
そこで慢心したら尾畠さん自身が危ない。たぶんね。
しかし彼は謙虚であり、己を知っているようだ。
「正直言えば、私は私が怖いんです。放っておくと悪いことをするのではないかという恐怖です。毎日自分を振り返っては、自分自身が悪いことをしたととにかく叱りつけている。これからも私は常にボランティアをして、感謝を続けるしかないんです」とも言っているので、とりあえず大丈夫だ。

それ以来、私はむしろ予知はしないようにした。
予知は役に立たないということでもある。例えば明日、地震が起こるとわかったとして何になるだろうか?今はネットがあるから発信はできるけど、広まることはない。
自分は助かるかもしれないが、他の人に言っても相手にもされないだろうし説得力もない。後で、あの人が言ってた、凄い!なんて言われてもたまたまカンが当たったというだけのことになる。

でも、どうしても邪念が入る。不安や恐怖もあるだろうし、助かりたい、人を救いたいなんてそれ自体が邪念でもある。
地震学者でも占い師でもない人が予知した所で役には立たないし、そうした「専門家」こそ邪念も入りやすく、地震予知などは難しいのだと思う。専門家が言ってもたぶん、正常化バイアスが働いてあまり本気にされないだろうし、当たってもなぜ広めなかっかのか?と言ったことになってしまう。
そのため当たらない、ということにもなるのだが。

予知は敢えてしないことにしたけど、洞察力は随分ついたと思う。精神病だったからたぶん普通の人よりかなりダメだったかのが、追い越すくらいには。
その方が良さそうである。予知にはそれに伴うリスクもある。

「無意識は何でも知っている」のかはわからないが、無意識を意識化すれば、洞察力も高まり、かなりのことは知ることができるようだ。

精神的に健康な人は概して運が良い。
無意識と意識にあまり矛盾がなく、普段の意識の中に予知能力のようなものが洞察力にも含まれていると思う。
不健康な人は、恐怖や不安、強迫観念、人によっては欲得がそうした能力を捻じ曲げ、阻害しているようである。
欲得もホントにそれを望んでいれば、一応実現するのだが、それに相応したマイナスもあり落とし穴に嵌る。

というわけで、このセルセラは精神の健康に役立つものでもありますが、洞察力の向上にも、無意識の意識化にも役立ちますが、純粋で素直になれる方法でもあります。純粋に活用されたし。

私が提唱するこのセルセラは神経の状態を改善し、働きを良くすることでもあるが、予知は預知でもある。預言、預知は神の意思を預かり知るということでもある。神経とは髪に通じる経絡という意味か?よく言ったもんだ。やはり思い上がっちゃいけない。尾畠さんを見習って自戒しなければ。

セルフ・セラピー研究所

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地下の団結、地上の分裂…チリ鉱山落盤事故から10年

https://news.yahoo.co.jp/articles/369446443d61ddd4dddd56dc40538816d9f86575?page=1

地下の団結、地上の分裂…チリ鉱山落盤事故から10年

【AFP=時事】今から10年前、南米チリ・アタカマ(Atacama)砂漠の地下に2か月以上にわたって閉じ込められ、生還した鉱山労働者33人は連帯と希望のシンボルとなった。
【図解】落盤事故、作業員救出作戦
 奇跡の脱出として世界中のメディアの注目を集めた33人は今、トラウマや病気に悩まされたり、嫉妬や苦い思いによって分裂したりしている。

yahoo!ニュースより

https://news.yahoo.co.jp/articles/369446443d61ddd4dddd56dc40538816d9f86575?page=1

これは記事としては示唆に富む良い話だ。
やはり素晴らしい団結を以って貴重な経験を乗り越えたのに、やはり今はトラウマに苦しめられているそうだ。人間そういうものだ。
トラウマとその克服法について知ることは当事者だけでなく、それをとりまく家族や業者などなどすべての人にとって必要なことである。それが誰でも健康に幸福になるためには必須のことである。

彼らが「薬で良くなる」なんて誰が言えるか!
せいぜい、さらに大きなリスクを抱えながら苦悩をごまかすだけ。
薬物依存症になってしまった人もいるに違いない。

もはや恐怖にさらされているわけではなく、終わってから苦しむ必要はないのに。記憶のリアリティとはそういうことだ

おそらく、閉じ込められた不安や恐怖によるトラウマよりも、救出されてからのお互い傷つくような体験や周囲の者の対応の方が、さらなるトラウマの倍力装置となったはずで、英雄的な貴重な経験さえ台無しどころかマイナスになってしまう。
だからこそ友情や協力、団結や思いやりは大事であり、継続が必須だがそれはいかに難しいことか。
「継続は力なり」

ものごとがまだ理解できない幼児なら、不可抗力による事故などは、周囲の環境が良ければ修復機能があり、さほど大きなトラウマになるわけではなく、その経験が活かせるものだが。当人が憶えていなくても無意識に。

やはり生存にも関わるようなトラウマ、要するに家庭環境だが、これといった出来事はなくても病因になる基本的なトラウマになる。暴力、遺棄といったいわゆる虐待ではなくてもだ。
そのことがわからない精神科医は多いと言うより殆だろう。

すべての人にとって、私の提唱するセルフ・セラピー、精神疾患の自己治療法はどんな人にとっても大いに役立ちます。
自慢でも何でもありません。古今東西そのようなものはなかったはずです。
ヨガや瞑想、座禅や〇〇療法は、全く無効ではなくとも大した効果を上げられたことはありませんが、そこまでやるだけでもほぼ不可能です。

セルフ・セラピー研究所

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河井あんり、河井克行、公職選挙法違反で起訴される(河井案里の声と表情)

河井夫妻を2900万円の買収罪で起訴 地元議員らの刑事処分は見送り 東京地検
https://www.tokyo-np.co.jp/article/41174
東京新聞
私は政治学科出身なのに、現実政治のことや法律的なことには疎いので、そういった方面のことは書けませんが、かなり悪質な選挙違反事件のようです。
河井克行は広島出身でSさんの同級生だそうです。かなり性格も悪く、パワハラを繰り返したり、評判も悪いようです。なぜ、そのような人物が選挙に当選するのかよくわかりませんが、余程人材がいないのでしょうか?
政治家になりたがる人は多いと思いますが。

河井案里は(自称)適応障害で、なんだかそのことがけっこう得意げです。
精神科医に診断名もつけてもらったのかも知れませんが、あの雅子さまと同じ病名だからでしょうか?
回りが悪いから適応が困難と思っているのでしょうか。あるいは自分が皇族のように特別な地位や立場にあると思っているのでしょうか?
自分は繊細だとでも思っているのか、図々しいという自覚はなさそうです。
事件が問題になってから、向精神薬の過量服用、オーバードーズで倒れ、搬送されたようです。

不当な非難を受けたので、そのストレスで病気が悪化したと思っているでしょうか?
殆どの人の頭には「自業自得」という言葉が浮かんで来そうです。
普通に考えると、適応障害なら環境を変えるべきで、国会議員は大変だろうしストレスも大きいし、最も向かない仕事のはずで、辞めるべきではないか?
その前に、政治家をなろうとすること自体おかしい、と思うのでしょうけど。
皇族なら辞めたり、仕事を変えるわけにはいきませんが。

もちろん薬でよくなるわけはなく、適応能力を向上させるのが治療のはずです。
ストレスと言っても国民に対する重責のプレッシャーではなく、自分の権勢拡大や自己保身の負担だろうし、不適応は社会に対する甚だしい勘違いや非常識、人間関係の問題などでしょう。
もちろん悪いことをする人は精神的に不健康ですが、本人は無意識の罪悪感があるはずで過度な自己正当化もその裏返しでしょう。
適応障害と言うには二重三重の矛盾を感じてしまいますが、やっぱり悪いことはすべきではないですね。


2~3カ月前に、この事件が問題化したときに、ニュースを見ていてビックリしたことがあります。
河井案里が国家に出てきたとき、マスコミや報道関係の記者が彼女に群がり、ぶら下がり詰め寄っていましたが、問いかけをを無視し、一言「その話はまたね、いずれゆっくりと」と穏やかな声で返しました。
それが効力をなしたようで、記者たちもそれ以上、追求することはできない様子でした。

えっ!声が良いじゃん? 悪質な犯罪者声には聞こえない?
周囲も騒々しいし、映像の音質も良くないので、わかり難いのかもしれません
それで他のニュースも探して見ました。
広島県議時代に県議会議長の不正を追求し、辞任を迫る場面です。
これは言いがりで、難癖をつけただけだったようで、不正を働き辞任すべきは、河井あんり自身でしたが。
やはりかなり悪質な声ですが、一見穏やかで柔和な感じでありながら厭味ったらしく、これはかなり訓練しているはず。

調べてみたら、母親は声楽家だそうです。
やはり本人もかなりトレーニングさせられたようで、歌も得意で、河井克行は彼女が「天城越え」を歌うのを聞いて惚れ込んだようです
政治家は説得力を保つ必要があり、発声のトレーニングをするのは当たり前だろうし、大学の雄弁部なんかに属していたりします。私の出た大学にも雄弁部があり、総理大臣やら有名な政治家も輩出しています。一度だけ模擬演説を聞いたことがありますが、口先だけかよ…

政治家の多くは張りのある通る声ですが、悪声自体はなかなか直りません。
声はごまかせませないのです
私は電話を受ける時、殆ど事務的な話しかせず、予約の日時や名前を聞いたするくらいです。それだけでも、相手の無意識のこともよくわかり、どんな性格で、どんな症状で、治療の先の見通しまでわかってしまいます。
もちろん、そんなに具体的なことがわかるわけではありません。
先入観を持ってはいけないのですか、第一印象は大事です。むしろ冷静に聞くと的確なことがわかるのです。

声が催眠術になっており、その催眠を分析するといろいなことがわかる。
サリヴァンは
「verbal therapy 言語的なセラピーはない。あるのは vocal therapy 音声的なセラピーだけで ある。」
「精神医学的面接とはすぐれて音声的( vocal)なコミュニ ケーションの場である」と言い、「trainingの声」と「desireの声」を聞き分け、それを患者にも意識化させ、セラピーに活用していたようです。

Empathyは、共感、感情移入、他人の気持ち・感情を理解すること、といった意味で使われますが、カウンセラーや臨床心理がこの言葉を使うのは、高慢な感じがするかも?
専門家というほど、できることもないのに。共感したような言い方だけは得意ですが。
「理解もしてないのに共感できるのか?」「安易な言葉だけの共感はいらない」「共感するなら銭とるな」などと思う人もいるかもしれません。

サリヴァンやフロム=ライヒマンはむしろ、感情や感覚に入ってくるもの、影響するもの、と考えていたようです。
そこを分析すると、相手の無意識もある程度読めるし、いろいろなことがわかります。
こうしたことは、他の人も言ってるのでしょうけど、私としては自分独自で発見したつもりです。
河井案里の声も直接聴けば、かなりのことがわかると思いますが、かなり高度なトレーニングを積んでおり、演説など聞いている分にはごまかされるかもしれません。
「言葉でウソはつけても、声で嘘はつけないません」
だからと言って、必ずウソを見抜くことはできませんけど。我々は刑事や検事と違って、まず相手を信頼する仕事なので。
しかしですよ。
誰しも思うことでしょうけど、彼女の顔はどう見ても悪人顔、犯罪者顔です。
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週刊文春より
見ただけで気分悪くなり健康を概してしまいそうです。
表情を見ただけで悪い催眠になるのです。目つきなんか特に、目があっただけでも脳に影響が入ってきます。
もちろん可愛くて健康的で性格も良い人なら良い催眠になるので、むしろ見つめていたいですが。
おそらく声をトレーニングでつくって、外面ばかりをとりつくろってきた分、無意識の精神の悪質さは声よりも表情に出てきてしまうのではないでしょうか?
どちらかと言えば、やはり男は女の外見に惑わされますが、彼女の場合は悪質さ、不健康さがモロに顔に現れています。
人の容姿のことは言うのはよくないかも知れませんが、やはり、外面だけをとりつくろうことはできないものです。
彼女は可愛いとも言われることがあったようですが、今となってはとうてい信じられません。
しかし、中高生の時や若い頃の彼女の写真を見ると、そう言われることもありそうな感じです。
河井あんりのサイトを見れば出てきますが、いかにも優等生を自認しているような感じで、自己中、生意気、高慢さなど、性格の悪さはよく出ていますけど、そんなに悪質という感じでもはありません。
彼女も、小さい頃の写真は、やはり普通の子供に見えます。
顔面崩壊し犯罪者顔になったのはやはり最近で、参議院選挙に勝ってからです。その前の広島県議時代はそれほどでもありません。
どんな人でも子供の頃は素直で、良い心を持っており、外見も可愛いのです。
しかし、主に家庭環境の影響、親の接し方、育て方の影響で心の癖、神経の使い方の癖がついてしまい、それが表情にもなり、筋肉の付き方にもなるものです。
遺伝的にはせっかく美人に生まれても台無しになる人もいます。
女子高生くらいでも恐ろしい顔をした人もいるし、もちろん可愛い子もいます。
歳をとってもチャーミングでステキな人もいるし、鬼婆のような人もいます。
やはり声も顔貌も精神の健康さ、不健康さを表しています。
人間、顔形はともかくとして、誰でもある程度、顔を良くすること可能ですが、エステなどでは本質的には変わりません。
声も良くすることは可能ですが、ただボイストレーニングをやっても、内面からの悪声は治りません。
アナウンサーや歌手などはトレーニングを積んでいますが、それでも感じの悪い声の人が少なくありません。私はラジオでニュースを聞いていても声が良くないと消してしまうこがあります。
一概に言えませんが、たいていの場合、患者の親や犯罪者は悪声です。患者さんの多くは悪声ではありませんが、いろいろな人がいますが、やはり声が弱々しかったり、発音が不明瞭だったり、上手く声が出てはいません。
やはり神経の状態や使い方を改善し、精神の健康を取り戻し、無意識の内面から美しくなり、きれいな声になるのが良いです。
当所の提唱するセルフセラピーにはその方法も教授しています。
https://www.self-therapy.info/
個人に対する施療指導、相談にも応じています。
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統合失調症の妄想は、なぜ電波や電磁波がからんだものが多いのか?

【統合失調症の電波系妄想について】
統合失調症の患者さんの妄想は、なぜ電波や電磁波がからんだものが多いのか?
例えば感情はどのように伝わるとか、そういうことはわかりません。表情とか声となどでもわかるけど、そうした一般的な知覚だけで判断しているわけではないし。昔の遠距離恋愛みたいに、会うわけでもなく電話もメールもしなくても、ある程度相手の気持ちはわかる。相手が浮気したりもう醒めていたりすると、こっちも不穏な気分になります。

自分が好意を持っている相手には何となく伝わるし、こちらのことを知らなくても相手も好意を持ってくれます。そうしたことがなぜどのようにして伝わるのか、今のところ科学の対象にすることもできない。精神分析を体得していれば無意識に反応しているということはよくわかりますが。
こうした感情や感覚、人間同士の伝播がわからなくても、コミュニケーションや人間関係に問題がなく上手くいっていれば良いので普通はあまり気にしません。これらのことを察するのは患者さんは非常に苦手で対処能力も低いのですが、気づかずにいることも、むしろモロに影響を受けてしまうことが多く、上手くいかず苦しんでしまいます。

また、患者さんは感情もしくは感覚的に地獄のようにとても苦しいのですが、その理由はわからず、そのような苦しい感情や感覚が自分の中から湧いてくるのではなく、どこからか伝わってきて自分に影響を与えているものとして知覚します。でも、どこから来ているのか、どのように影響しているのかわからない。
脳の病気で頭が狂っているからそう知覚しているのではなく、実は過去の影響であり、幼児期からの心的外傷、トラウマの影響ですが、本人は幼児期のことはわからないし、それがわかると余計に恐ろしいことになるので認めることも難しい。内面的に余計に苦しくなるということもありますが、実際に余計に傷つけられひどい目に遭ってしまう。

そこで感情や内的な感覚のようなものがどこから来るのか、どのように伝わるのかは切実な問題となりますが、知ることも確かめることもできません。精神科医や心理カウンセラーも事実を捻じ曲げ、自分を偽り正しいことは教えてくれません。統合失調症は脳の病気と信じており、トラウマを否認しているからです。事実に基づいていないことは信じることはできないし、信じても何の解決もなく自分の中でも納得感は得られません。

また、幼児期から激しい支配や抑圧、干渉などを受けているため、十分には自我が育っていません。自分の意志や感情や感覚、自己が確かなものではないのです。「させられ体験」なども同様ですが、外部からの影響に自分が影響され支配されているという感じも強いのです。

とりあえず外部から自分に影響を与えている可能性があるものとしては電波とか電磁波なので、感情や感覚などの伝播をそのせいにすると証明もできず解決はしなくとも、一応整合性もあるし気持ちの整理もしやすく納得感も得やすいのでそう思いこんで信じてしまいます。

というわけで、統合失調症の患者さんは、普通の人が当然知っていることはだいたい知っており、皆が知らないことはやっぱり知らないのです。一見、奇妙、異常で、事実に反しているようで、実はかなり事実に基づいており、精神科医なんかよりもずっと正しい、ということは大いにあるのです。

患者さんはむしろバカ正直なので誤認や否認はあっても自分で自分を騙せないのです。一見奇妙な事実とはかけ離れたかのような幻覚や妄想といった症状も、直接関係なのないことに結び付けられてはいても、過去の事実に基づいています。
やはり治療は事実に基づいて、真実を追求するものではなくてはなりません。嘘やまやかし、ごまかしは一時しのぎにはなっても余計に人を苦しめ、傷つけます。精神科医や関係者だけでなく、一般の人やもちろん家族も、患者を追い詰め、症状を余計に強化しているという面は大いにあります。病気の理解を深め、そうしたことはやめるだけでも患者さんはずいぶん良くなります。精神科医は騙せても患者は騙せないのです。

何もわからなければ精神科医の皆さんには「脳の病気」では無く、「心的外傷(トラウマ)」が原因という前提で接すると、今までよりも遥かに上手くいくことがわかります。そうでなければ精神療法は成り立たず、どうしても薬物に依存し悪循環になってしてしまいます。正しい考えは結果を出せます。しかし、そうなると精神科医を辞めることになるかも知れませんが。

もし「脳の病気」だったらどうしてくれるんだ、責任は取れるのかって、もちろん気にしなくて良いです。少なくとも今のところ「脳の病気」を治す方法はなく、薬や電気ショックは影響を与えるだけです。いずれにしても精神科医は責任をとるようなことはなく、これからもそうでしょう。

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反日は朝鮮戦争のトラウマのすり替え(日韓問題、反日と嫌韓)

反日は朝鮮戦争のトラウマのすり替え(日韓問題、反日と嫌韓)
朝鮮の歴史的背景を韓国人だけでなく、日本人も理解する必要がある。
朝鮮併合、日帝支配は功罪半ばしており、おかげで他国からから解放され近代化した反面、少なくとも一部は不当な抑圧や差別、残虐行為も事実としてあったはず。でも、戦後の日本人の多くは反省すべきは反省したと思う。
かつては韓国も台湾と同様に反日では無く、殆どの人は恨んでいるどころかシンパシーを持ち、むしろ感謝する人も多かった。日本人が韓国に行くと年輩者は懐かしそうに日本語で話しかけてきたりして、「悪いことをした」と負い目を感じていた日本人も拍子抜けした、という話を聞くこともあった。
サヨクでなくとも「韓国人は謙虚で寛容で良い人たちだなぁ、我々自身がやったことでは無くとも過去の過ちは反省し謝罪すべきである」と考える人が多かったのである。国内でも在日差別は一部であり、それほど関係が悪かったわけではなかった。
しかし、なぜむしろ日帝支配時代を知らない韓国人は反日になったのか?
その主な要因は、不当な反日感情は日帝支配に伴う弊害に対する恨みではなく、朝鮮戦争の被害によるトラウマの否認、すり替え、転嫁であり、精神分析的に言えば集団的な「感情転移」である。
韓国は朝鮮戦争により、日帝支配とは比較にならないほど大きなダメージを受けた。しかし、もちろん歴史的に後のことで、まだ生きている体験者もずっと多いのに、今では年輩者に聞いても殆ど忘れており、隠ぺい記憶となっている。世界史上でも最も悲惨で凄惨と言われる、血で血を洗うような朝鮮戦争のことを韓国人は驚くほど知らない。否認したいという心理もむべなるかな、ではあるが。
韓国の学校では反日教育ばかり、というのも悪意があってというより、朝鮮戦争のトラウマを自覚せず無意識に支配されているからである。日本でも現代史は教えないが。

朝鮮戦争に関しては韓国人は加害者であると同時に被害者であり、死者も多く国民の1/5が亡くなった。当然のこと激しいダメージを受け、大きな国民的トラウマになっているが、その怒りや恨み憎しみをどこに向けていいのかわからない。もちろん自分たちに向けるわけにもいかず、やり場のない怒り、敵意、憎しみ、恨みなどが日本に向けられているのである。

朝鮮戦争は南北に別れて戦ったのではなく、基本的には米国が朝鮮半島から共産主義を排除するための戦争であり、ソ連も対抗して介入し、その結果として南北に別れて休戦となった。当然のこと、当時は南にも共産主義を支持する人が少なくなかった。戦闘により亡くなった人とほぼ同じくらいの人数が、北側の支持者もしくはスパイなどと疑われて拷問や集団リンチ殺人事件で殺されたのである。拷問には日本の特高警察の「拷問技術」が模倣された。もちろん多くは濡れ衣である。「保導連盟事件」など、韓国ではタブーであり教えられることもない。
疲弊しきった60年代~70年代の韓国は、出稼ぎ立国、売春王国とならざる得ず、そのトラウマもあるはず。
北朝鮮の支配体制も戦前~戦中の日本のマネという面も大きいと思う。

1965年日韓条約は、軍事独裁者・朴正熙(朴槿恵の父親)が戒厳令下に強権をふるって、韓国民の声を圧殺して締結したので、そもそも殆どの韓国国民は、日韓基本条約も請求権協定も認めていなかったのである。反対運動もあったが、多くの韓国国民は食うや食わずでそれどころではなかっただろう。これに対して、間違った認識や虚偽意識に基づいているとしても、韓国の反日は韓国国民の「総意」に近いと言える。

恩を仇で返す恨みがましい民族、と考えるのは事実に基づいてはおらず、全く現実的でも得策でも無く、それでは何ら解決の方向を見いだせないだろう。
生まれたばかりの赤ちゃんは、どこの国でも民族でも基本、純粋無垢であるが、民族性、国民性にはそれだけの歴史的背景が影響している。語弊はあるが「可哀想な民族」、ユングの言う「集合無意識」はそういった面もある。
日本は朝鮮特需という漁夫の利を得て、それが後の経済成長の礎となったのも皆さんの知るとおり。韓国は日本の後を追ったが、結局うまくいかなかったという悔しさも潜伏しているに違いない。日本だってそう上手く行ったわけではないが。

ベトナムではオランダ人などに日本軍はレイプ攻撃を行ない、それゆえ反日感情も強く、昭和天皇はヒロヒットラーと呼ばれていたが、今日では反日は克服しており、言うまでも無く日本人も反米反英は克服している。昭和天皇は捨て身の覚悟でオランダも沖縄も訪問し、その誠実さは、意義や価値を認めない者にも結果としては影響を与た。
曲がりなりにも「アジアの開放」を目指した日本に対しては、欧米諸国も植民地支配・圧政の後ろめたがあり、相殺する心理もあったはずで、今となってはすっかり世代交代もしている。

「罪を憎んで人を憎まず」「汝らの中、罪なき者、まず石を投げ打て」
人間は許すことはできなくても忘れることはできるが、主観的には忘れても無意識のトラウマは残る。恨んでも恨みを向けないことはできるし、克服し乗り越えていくこともできるが、やはりそのためには自らのトラウマを自覚することが必須である。北も含めて朝鮮人は自分たちのトラウマを受け入れ、克服しなければ、自らの不当な反日感情は克服できないだろう。反日は韓国人自身が克服し、乗り越えるべき課題であり、それが本来の「未来志向」である。

日本人にもこうした歴史認識は必要であり、その上で冷静に見守りつつ対処すべきである。反日に支配されている韓国人は朝鮮の歴史を知らず、対立はしても日本のネトウヨと呼ばれるような人も、基本的には同様だろう。
「過去に目を閉ざす者は、現在をも見ることができない」
無意識の心理を知らなければ歴史や社会心理は理解できない。

しかし、このような事実は相手に諭しても余計に反感を買ってしまうのが難しいところである。
患者さんがトラウマの事実を否認し、治療に抵抗を示し、病理性を守ろうとするのと同様で、精神分析で言えば「抵抗・防衛」である。
韓国側からだけでなく、日本人側からも反感をかうことを承知で書いているが。
ネットなど見ていると、今こそやるべき時だ!制裁が必要!甘い顔を見せてはいけない、などと「勇ましく」奇妙な高揚感に支配されている人も少なく無いようである。前の戦争でも、インテリでさえ先の見通しも考えられず、多くの人はそうした心理に支配されていた。

幼児期のトラウマにより解離しているからである。戦争も広い意味では集団的な「感情転移」であり、精神病理現象である。
政治家にも国民にもそうした認識がないことに不安を感じて危惧しています。
対立は何としても避けるべきである。おそらく経済制裁などしてもエスカレートしてしまう。
今どき、戦争といっても、そうそうドンパチやるわけにはいかない。既に戦争は始まっているのかも知れないが、何としても避けるべきである。正当な主張は粛々と続けるべきだと思う。
戦い続ける人の心を 誰もがわかっているなら
戦い続ける人の心は あんなには燃えないだろう。吉田拓郎「イメージの詩」

1970年、小学校6年の時、初めてこの曲を聞いて感激した。

徴用工問題、慰安婦問題、少女像、朝鮮戦争、日韓対立、反日、嫌韓、経済制裁、日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA(ジーソミア))の破棄決定、北朝鮮問題

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オーラが見える!? オーラについて

オーラが見える!? オーラについて
 やっぱりオカルトとは思われたくないし、その前にオカルトって何でしょう?ってことにもなるんだけど。
 とりあえずウィキペデアから引用。
 オーラとは、生体が発散するとされる霊的な放射体、エネルギーを意味する。転じて、ある人物や物体が発する独得な、または霊的な雰囲気や、なんとなく感じる力、威圧感なども指す[1]。なおオーラという言葉は、「微風」「朝のさわやかな空気」を意味する[2]ギリシア語 α?ρα(アウラー、「風」「香気」「輝き」などを意味するラテン語の aura(アウラ)に由来する。

 というわけで、かなりいい加減というか曖昧に使われている言葉であるが、そのようなものとして認められるという人は多いだろうが、明確に認識している人は殆どいないだろう。後述するが「見える」という人も嘘をついているわけではないが、まやかしインチキっぽくなってしまうのはそれなりの理由がある。
 私はきちんと定義できない言葉を使うのは嫌いなので(もちろん誰にでも誤解なく通じる日常語は別)ここでも明確にしたいと思う。自分がわかってもいないことを書いたり話したりする気はないです。
 そうしたことは精神科医の得意分野ですが、私は精神科医ではありません。
「インディアン嘘つかない」←子供の頃、好きだっだ言葉。
 とりあえず私の定義では神経の発光現象である。ただし、神経そのものの発光なのか体の細胞が発光するのかは良くわからない。たぶん両方だろう。
 電球の明かりなどとはもちろん違って、光のスペクトラムには含まれておらず、科学的には同定されていない。したがって、科学的にはまだ証明されていないものであるが、伝え聞くところによると東大の某脳科学研究者が実験で見た、研究しているという話もある。
 それは期待しても良いのかもしれないけど、とりあえず特に関心はない。おそらく脳科学が精神疾患の治療に役立つことは、百年やそこらではないと思う。むしろ阻害になることが懸念される。
 オーラは輝き、光でもあるけど、引用にあるようにエネルギーでもあるかもしれない。これは発していることでもあるが、(宇宙から?)吸い込んでいるものでもあるように思える。これはそう考えるといろいろなことが説明できるのだが、エネルギーそのものが直接見えるわけでもないし、重力のように明確に示せるものではなく、今のところ私自身はきちんと同定しているわけではない。
とりあえずこう考えるとわかりやすいかもしれない。
生き生きとして健康的で意欲的に活動している人は「あの人は輝いている」と言われるけど、実際に輝いているように見える。
明るい人、暗い人というけど、やはり陽気で朗らかでにこやかでいる人は明るく見えるし、陰鬱で気分がふさぎ込んでいる人は暗くくすんだようにみえる。
昨今のアイドルグループなんか、そこらのおねぇちゃんを集めたようにしか見えなかったりするが、人気が出てきて皆から注目されるようになると精彩が出てきて、歌も踊りも急に上達したりする。
そうなってくるとスターというように輝いているように見えるし、街で人混みの中にいても、特別な存在、雲の上の人のように見えたりする。
グループを離れると人気が低下し往々にしてまた戻ってしまう…、アイドルに限らずタレント芸能人や政治家なんかもそういう人が多いけど。
 おそらく後光がさしているというのもそういうことで、昔の仏像やらキリスト教の聖画なんかも、見えたままを書いたり表しているのだと思う。
 そう言えば、昔ある女性に「すごい!、頭の上に天使のような輪っかが見える!」と言われたこともあるし、数多くの教祖様やら霊能力者とき会っているというオバサンに「何人もすごいオーラが出ている人を見たことがあるけど、貴方のような人は初めて見た。そういう人だからセラピーができるんですね。」なんて言われたこともある。
 しかし、生後数か月の赤ちゃんなんかにはオーラが見えているとしか思えない。先日も親戚が集まった時に、兄の孫も来ていたのだが、いつもこっちばかり見つめてくる。
布団に寝ころんでいても首を捩じって見つめてくるし、兄嫁が抱き上げても兄嫁とは顔を合わせようとせず、やはり首を捩じってこっちを見つめてくる。兄嫁(祖母)は元保母さんで子供の扱いも上手いのだが。
「なんでそっちばかり見るのかしら?」「俺のオーラが見えるからだよ」
 電車の中でも赤ちゃんは周りの家族よりもこっちの方を見つめてくるし、見つめ返しただけで泣き止む。
 こっちも健康的で気分よく、気力充実していないとダメだけど。
そうした感覚を残している人は大人になってからもオーラがハッキリ見えるのだろう。私の観察では3歳までには殆どの子がそれを忘れており、したがって体験を共有することもないが、たまにはオーラについて話す子供もいる。
 かなりの人が同様なことを体験していると思うけど…
 昔、学生の頃、昼飯を食べそびれて空腹のまま夜酒を飲んだが、金がないのでツマミも殆ど取らず、睡眠不足もあって体調は良くなかったが。
帰りの電車で気分が悪くなってきて、貧血のような感じで目の前が真っ暗。駅に着いたのはわかったので、とりあえず降りて休もうとしたらドアが開いたとたんに、ぶっ倒れてしまい…。
 大丈夫か?と両脇から抱えて起こしてくれた人がいたが、大丈夫ではないけど何とか「大丈夫です、すみません」と言ってホームに降り、ベンチで休もうとしたのだが。
 目の前は真っ暗なままで見えないのだが、人影だけは人物型に光って見えのるで人にはぶつからない。何とか手探りでベンチにたどり着いて休んだら、別に病気でもないし10分やそこらで落ち着いたけど。
 あの人型に光っているのがオーラかもしれないと友達に話したら(その頃は日常的には見えなかった)、友人(複数)は俺もそういうことがあった、やっばりそうかなんて納得していたけど。
 これも昔、若いころ自転車店で働いていた時のことだが…
 人の顔色を見て敏感にいろいろとわかる同僚がいた。別な同僚を朝出勤したときちらっと見ただけで、「彼は何かあったな。彼女にフラれたか」と言ったら、そのとおり昼休みにその話をしてきたり。客のことも見ただけで洞察が鋭い。
 こっちは鈍くて空気読めない奴だったのでそれが不思議で、多くの人はそう思わないだろうけど、敏感なのも鈍感なのも理由があるはずで、敏感になればいいと思った。
 「なんでわかるんだ」「まぁ、顔色なかな…、表情とか雰囲気もあるけど」「俺は色彩感覚は良いはずだけど」「顔色って言うけど色でもないんだよな」
こっちもだんだんわかるようにはなってきた。
 今の治療を始めて最初のころだから、20年以上も前のこと、その頃はまだハッキリとはオーラは見えない。
 ものすごく厚化粧の女性が来た。これじゃ、顔色を見ても良くなってきたことが確認できないな、と思ったのだが…、5回の治療を進めるにつれて一回ごとに、だんだんとハッキリ5段階で顔色が変化してくるのがわかる。やはり顔色は色だけではない。
 「お陰様ですっかり良くなって」
 最後にはほとんど化粧をしないできた。
 やはり自分の顔色を気にして、そうしないと外出するのに抵抗があり、ついつい塗りたくってしまうのであろう。化粧では顔色は隠せない。塗装も下処理や下塗りが大事だけど。
 たぶん自分の顔色の変化にはあまり気づいてはいないのだろうけど、行為・行動の面でも良くなるともちろん違っている。
そうしたこともあって私もだんだんハッキリわかるというか見えるようにはなってきた。
 要はオーラとはそのような人の輝き、光であり、それが肉眼でも見える、ということである。
 やり方・見方というか訓練の仕方については、治療を受けに来た人には教えますが、治療終了近くなってからです。やはり健康にならなくては輝いてこないし、感覚も良くならないと見えないので。
 「ワ~、すごいはっきり見える」という人も多いし、すぐにというわけにはいかなくとも、大抵の人は見えるようになると思う。
 治療ではこっちもオーラを見て神経の状態が良くなっているのを確認している。だから、一回目から効果があるのと言えるのだけど。前半であまり変化がないと、後半は時間をかけてやったり。もちろん当人が分かるかどうかは別問題である。
 ホントにキレイに輝いているオーラの出ている人は少ないです。自分の所に来た患者以外ではほとんど見ることはないです。(もちろん良くなってからです)
病気がすぐに治って健康になるというのはいろいろな面があり、そう簡単ではないですが、神経の状態自体は一般の人(並みの人)よりはずっと良くなるので。
 でもオーラの色がどうのという気はないし、見ようとも思わない。要するに輝きであって、そこにはやはり様々なスペクトラムがあり色もあるのだろうけど、色がハッキリ見えるわけではないし、むしろ見ないほうが良いと思っている。
 今まで経験した中では、政治家とかヤクザの親分みたいな人とか、輝きは強いんだけど、嫌~な感じのオーラが出ているのを見たことがある。色があるといえばあるんだけど、例えようもないような嫌な感じ。
 テレビに出てくるオーラが見えるという人たちも、それぞれが特定人物に対して同じ色が見えているのではなさそうだし、むしろハッキリわかる人は色のことは言わないようだ。
 これは霊視なんかにも言えることだが、最初は見えても段々と勝手に自分の主観で見てしまうのである。見えないものが見えるというのではないが、客観性を失って、脳内の視覚であって、実体が伴わなくても見えてしまう。自分の脳内プリズムを通して見てしまい、そのプリズムがどんなものかわからず、自覚もしていないような…。
 大事なことは目に見えず、些細なことを針小棒大に見てしまったり。何にでも言えることかもしれないが。
 霊能力がある、霊視、除霊をやる人もやはり同様な場合が多く、最初は嘘ではないのだろうけど、だんだんおかしくなってる場合が殆どである。特に金や名声などの欲が絡むとダメですね。リスクもあるので高額なお金をとりたくもなるのだろうけど。人間、特別な能力があっても謙虚にならなくしてはいけません。
 私は特別な能力があるわけではなく、精神疾患を少なくとも基本的には理解し(精神科医は誤解し)、治療法をもっているだけで、そうした人は精神科や臨床心理士や心理カウンセラーや自称セラピストなんかには、ほぼ皆無というだけのことです。
 したがって、オーラの色がどうのというつもりはないし、そうした見方をする気もありません。除霊・浄霊も狭義の憑依精神病の人にしかやりません。一般の精神疾患の人にはやってもあまり意味はないです。その時は一応すっきりしたりするけど。
 もっとも人間健康的になると、顔色も表情も目つきも皮膚の状態や姿勢や声なんかも違ってくるので、そうしたことからいろいろなこともわかるし、特にオーラが見えなくても治療はできます。実際に前述のように私は中々見えなかった方です。
 オーラなんか見えなくても、感受性や洞察力・観察力、それが伴った理解力を身に着け、向上させる必要があると思います。
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小保方晴子さん、ベッキーちゃん、(引き寄せの法則、ポジティブ・シンキングの陥穽)

小保方晴子さん、ベッキーちゃん、(引き寄せの法則、ポジティブ・シンキングの陥穽)
小保方晴子さんの手記、「あの日」が出版されたことが話題になっている。
ベッキーとゲス極川谷という人の不倫も随分マスコミを賑わせた。
手記には大事なこと不都合なことは書かないだろうけど、たぶん大部分は事実なのだろう。彼女の見方、解釈による事実でしかないが。
矛盾も多く認知の歪み、認識の欠落は甚だしく、解離が大きい。
ただでさえ自分のことはわかりにくいのは人の常。人のふり見て我がふり直せもむずかしいことである。
サルも木から落ちるし、豚もおだてりゃ木に登るが落っこちてケガをする。
登る人がいるから梯子かけられるんだし。階段を登っていくことは同時に落とし穴を深くする、梯子を登っていくことは当然リスクを大きくすることである。
彼女の言う真実を全てを認めたとして、若山照彦さんだけでなく他の関係者も含めて五十歩百歩だろう。若山さんは先攻、小保方さんは後攻か。人のせいにすればなんだって人のせいではある。
若山さんは怯懦か狡猾か逃げ足が速く巧妙だったのだろう。
悪く言えば詐欺の仲間割れのようなもの。今更言っても。2年前の会見の時に言うべきことだった。その後でもネットで表明するなどいくらでも機会はあったはず。それどころじゃなかったんだろうけど。
おそらく陰謀・策略というというような大げさなものではなく、無自覚にのせたりのせられたり、欲に動かされ自己保身に走りコトが進んで拡大してしまったのだろうけど、これは歴史的な事件あるい犯罪史上でもありがちな悪いパターンである。
私は文系出身で医学部にいたので多分に偏見はあるだろうけど、科学者ってのは物的現象以外の日常的な現象については驚くほど事実を認識しない、自分の目でしか物事を見られない、自分の頭の中のみが事実、という人が多いと思う。それが訂正できずまかり通るので恐ろしい。
自己中でありながらコロコロと人に動かされ騙されるので、集団病理現象になりやすい。
精神科医なんて殆どそうだし。悪い意味で科学者、(科学者でもないか?)
だからこそ精神医療被害、向精神薬害がここまで拡大したのだ。
脳の病気なら脳波やCT、MRIなどいくらか役立つものもあるが、精神疾患には確認できる物的事象は何もない。光トポグラフィーなどもちろん何の役にも立たない。
小保方さんも若山さんもベッキーちゃんも、笹井芳樹さんのように抗うつ剤SSRIの賦活化症候群、アクチベーション・シンドロームで自殺しないで欲しいです。
うつ状態といっても、広い意味では症状ではあるが、脳の病気のうつ病なんかにはなりません。理由があってなってるんだから、それ自体は正常な反応。抗うつ剤では当初は楽になったかのように見えて悪化するのは当たり前。
きちんと釈明して謙虚に頭を下げれば男を上げることもできたはずだ。それができないのが病気ともいえるし、そこまでに至ったプロセスが病気ともいえる。
精神疾患に発病はないし、厳密には発症という概念も成立しない。
小保方さんや関係者もベッキーちゃんも、そもそもあまり健康ではなかったのだろうけど。
少なくともネームバリューはあるので、何なりとやっていくことはできるはずです。
人から騙され、騙されたことに気がつけば逆襲されるのは当然。もちろん良いことではないが。
マスコミも大衆もそういうもんだろ。彼らは彼らの価値観や倫理、行動様式でしか動かない。
小保方さんのことは前にもまとまらない文章を書いたけど。
もちろん、小さい範囲では理研全体が、大きく言えば社会全体の集団病理現象を少なくとも反映している。
これだけ注目を集めた事件であるから、若山さんの反論が聞きたいだけでなく関係者の意見も聞きたいところだが、もはや『藪の中』だろう。
関与した人が無自覚で自分で自分を偽る面があれば今更かもしれない。
STAP細胞も再生医療も、一部の人にしか関係ないし、ホントの医療の進歩につながるとも言えない。
資本主義医学、ビジネス医療、では大きいというだけだ。少なくともやるべきことは他に沢山ある。
STAP細胞でノーベル賞がとれるなら、俺なんか10個くらいもらっても良さそうなもんだが。
いらねーけど、企業秘密だし。賞金だけ欲しい。
保険料がこんなに高いのでは医療以前にメシが食えない。自営業の人はこんなに高い国民健康保険料が払えるのだろうか?保険抜けることはできないし。
食うや食わずの低所得者でも上限近くになってしまう。みんな所得ごまかしているのか?低所得だとごまかしようもないのだが。不思議だ。
医療を縮小すべきだ。そのために私はずいぶん貢献しているのだが多勢に無勢。
金持ちしか享受できない医療になんで貧乏人が金を出さなくてはいけないのか?
そもそも医療は必要か??誰得? 「この国は医療で潰される」
話がズレたがいつものことだ。
人助けをしたいのは大いにけっこうなことだが、尊敬や感謝、称賛が得られることではなく、もちろん金になることでもない。純粋に世のため人のために貢献したいとしても、非難攻撃を受けるのが世の常である。
ベッキーっていう人は知らなかったけど、彼女も小保方さんも基本的には同様だろう。
元気は病気という面も無きにしも非ず。好感度と言っても悪く言えば人を騙しているようなところがある。演じているわけだが。テレビはそういうもんだし、悪い意味で相性が良かった。
特に才能や能力があるわけでもなし、両者とも人に取り入り取り立てられ、『引き寄せの法則』 『ポジティブ・シンキング』で成り上がり、堕ちていった。
禍福は自ら招く、糾える縄のごとし。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。
両者ともスピリチュアル系、というか少なくともそういう影響を受けているのだろう。
プラス思考、ポジティブと言ってもマイナス、主観だけのもの、ネガティブの補償でしかなかったり。
ネガティブが良いわけではないがそれだけ理由や背景があってのことで、有るものを無いものにするわけにはいかない。
「無意識に嘘は通用しない」それが無意識の法則である。
世間的にも他者にも自分にも、嘘がそうそう通用するわけではないが。
無意識について一知半解、事実を理解せず「無意識の法則」を適用すると落とし穴にはまる。
偽り、まやかしは無意識の逆襲を食らう。
単純化していえば、小保方さんもベッキーちゃんも意識の上では無理にポジティブ、無意識ではかなりネガティブ。表プラス、裏マイナスの傾向が強かったのだと思う。
意識の上で無理にポジティブ・シンキングだと無意識にも徐々にポジティブになるとはもちろん限らなず、むしろネガティブを強め、解離甚だしくなり、運気上昇から一気に落とすことになりがちです。
何でそうなるかどうしたら良いのか?
スピリチュアル系の人の殆どがそうしたことを理解していません。
ネガティブ⇔ポジティブの二分法、二項対立の思考もあまり適切ではないですが。
ヒプノセラピスト、スピリチュアル・カウンセラー、○○セラピー、無意識に働きかけて…、などと称する人のほぼ全てが無意識の法則を理解せず、勝手に思い込んでいる。
「心的決定論」の身勝手な解釈と適用。それが一時的に成果を上げることもあるが、ツケが回ってくる。後が危ない。
上辺をつくっても動かしても砂上の楼閣、やはり基本が大事だ。
指導・援助する側も正しい治療を受けて訓練する必要があります。
傾向は違うけど心理カウンセラー、臨床心理士、精神科医も同様。
精神科医は事実を理解せず知識を当てはめてしまうので、知識は真実でも適用は間違い。間違いを検証もできないのに信じ込む。
身体の病気なら僅かながらも検証の方法があるのだが。
認知行動療法も似たようなもので、認知の歪みと言ってももちろん理由があってなるべくしてなってるんだから。こっちは無意識無視。
小保方さんの母親もお姉さんも心理学者ということで、いかにも、ではある。
ヒーリング系、スピリチュアル系の人も患者さんも注意して欲しい。

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統合失調症の原因(ある同級生)

ある同級生のこと(統合失調症の原因)
私が中学に入学したのは1971年である。思春期の始まり、多感な時期である。
入学早々、大久保清の事件がニュースになり、それは随分、気の滅入ることであり大いに苦悩した。前年にハイジャック事件や大阪万博があり、この年にドルショック、翌年には浅間山荘事件があり、中学3年の時にはオイルショックが起こった。ベトナム戦争は徐々に終結に向かっていった。
それらのニュースは良く覚えている。
赤軍派メンバーの名前など今でも諳んじているほどだ。新聞は読んだが、勉強は全くしないのでそういうことは記憶に残っている。
彼らも世界の平和や人々の幸福、自由と平等を目指していたはずなのに、なぜあんなことになってしまったのか?
連続婦女暴行殺人事件も集団リンチ殺人事件も、私にとっては深刻な問題であり子供なりに真剣に考えた。中学1年ではあまりに重すぎる課題ではあったが、勉強にはなった。
2つの事件が起こった群馬には何の因果か仕事の転勤で移住し、30歳~40歳までそこで過ごすことになった。
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私の中学は主に2つの小学校から来た生徒が一緒になった。団地の中の新設校であり、4期目ということになるはずだが、校舎は前年に出来たばかりでまだ新しかった。
その時に私とは別の小学校から来たある女生徒を一目見て一目ぼれした、という話ではなく、将来的にあの子は精神分裂病になるに違いないとハッキリ感じた、というよりわかったのである。
既に表情や姿勢、しぐさにもその兆候(というより症状そのもの?)は現れており、背後に親の様子や家庭環境も透けて見えるようだった。もちろん親には会ったことも見たこともない。
透視能力などあるわけでもないが、子供というのはしばしばそういうものである。
既に若干名は精神分裂病の患者のことも噂には聞いたことがあったし、その家族的背景や成育歴など、知ることはごく僅かでも、ある程度の察しがついていた。
一般的に統合失調症の親は一見きわめてマトモでむしろ立派に見える。その子供もまた発症するまでは多くの場合、マトモすぎるくらいマトモである。少なくともたいていの場合はそう見える。
家庭の中を覗いて見たとしても、やはりそう見えるかもしれない。
虐待というのには当てはまらず、普通は暴力はないし言葉の暴力でさえなく、敢えて言うなら有害感情の暴力か。
統合失調症の親は必ずしも愛情がないわけでも薄いわけでも与えないわけでもない。どちらかと言えば愛情を与えて剥ぎ取るのである。その分を取り返すかのように、というよりも利子以上の分も暴利を貪る高利貸しの如く。
もちろんそれだけが原因ではないのだが。
納得がいかない人は、失恋を考えるとわかりやすいかもしれない。
ただ単にこっちが好きでも相手にその気なし、脈なし、つれない態度や返事だけなら、ガッカリしたり落ち込んだりもするだろうが、それほど傷つくわけではないしあっさりと諦めもつく。またしばらくして口説けば相手も気が変わるかもしれないし、こっちも執着はしていないので他の人にすれば良い。
ひどく傷つく場合は相手にも愛情があり、それなりに深い相互的な恋愛感情に基づく精神的な関係があった場合である。別に嫌われたわけでもなく、単に相手が心変わりしただけでも激しく傷つくことは経験のある人ならわかるだろう。
それは幼児期のトラウマの再現でもある。恋愛関係は常に転移・逆転移関係でもあるのだ。陰性転移と陽性転移はコインの裏表のようなものでもある。
『サリヴァンの精神科セミナー』みすず書房にはこうした会話がある。少し引用してみる。
ライコフ
そうね、今はやる時じゃないが、いつかは、例えば自我変化を起こす自我容量の水準が何であるかを論じたい。これは僕自身のためでもある。僕が何年かを共に過ごした統合失調症の家族の全部だが、家族も患者とまさに同程度にクレージーだというのがほんとうだ。思考障害も同じことだ。R.D.レインなどが出している膨大な資料はもう古い。家族の中では実際に統合失調症が全く正常(ノーマル)だということは、われわれの多くがたぶん前から知っている。しかし、父親、母親、きょうだいたちが(患者と同じように)精神科病院の同じ病棟に入院していない事実をどう説明する? あの連中はクレージーなのに(普通の人間が)するとされることは全部している。自我能力がそれを可能にしている。なぜか思考障害の封じ込めができている。
クヴァニース
--もう終わる時間だよ。

というわけで、話が佳境に入ってきたところで対談は終わっているのだが(時間の問題じゃないだろ)、少なくとも中学1年の時の私はそこで思考停止にはしなかった。
R.D.レインの『引き裂かれた自己』を読んだのは高校に入ってからであったが。
幼児期において、特に認識主体と客体、自分と他者、自己と対象、睡眠と覚醒、現実と幻想といったことが、十分には区別がついておらず、まだまだ未分化で自我が確立していない(一次過程が優位な)段階で、極端な愛情剥奪を受けると、大人になってから(多くは思春期~青年期)ちょっとしたショックな出来事やストレスや不適応など、些細なことでもあっけなく精神が崩壊し統合失調症を発症する。
しかし幻覚・妄想といえども脳の異常によるものではなく、普通の人には無いことが起こるわけでもなく、生後数か月レベルの幼児の精神構造への退行・固着である。普通の幼児の精神状態と違って、はるかに強大な不安や恐怖に支配されたものだが。内面化されたトラウマの再現でもある。
十分に自己が確立した人なら、覚醒時には意識から排除できており、睡眠時に悪夢のような形で起こるようなものである。寝ぼけているときに幻覚・妄想があるのは普通の大人でも普通のことだ。
統合失調症の状態は、もちろん寝ぼけているのとは違うのだが半覚醒状態と言えなくもない。
解離された感情や衝動、情動、欲動などが再び覚醒時の意識の中に侵入し、自己を支配してしまい、抗いようもく対象化不可能になってしまう。
先に述べたような、未分化な段階の精神構造への退行であるが、それも全面的に退行するわけではない。
愛情を伴った承認が得られなければ、感情・感覚、認知・認識や思考も、自分のもの、確かなものにはならないのだ。一旦、確立したかのように見える自我や対象関係も、極めてあやふやで脆いものでしかなく、あっけなく崩れてしまう。
先に「些細なことでもあっけなく、崩れてしまう」と書いたが、それは一般的に言えば、もしくは傍から見ればということであって、当人にとっては生死を分ける崖っぷちの瀬戸際、文字通り死活問題である。
例を挙げるなら、お店のバイトを始めたが、「いらっしゃいませ」が上手く言えないなと。
それは最後の審判、死刑宣告であり、人間社会からの抹殺、世界からの排除であり、二度と昇らぬ日が沈む。
それには幻覚・妄想ではなく十分な現実に即した理由がある。
まだ若いのに…というのは、申し訳ないがハッキリ言って素人の浅はかさ。
生きるか死ぬか。実際に自殺する者もいる。生きるのか!?…、然らば精神の自我の崩壊。
私は独力で統合失調症≪精神分裂病≫(の少なくともその殆ど)がPTSD・心的外傷後ストレス障害であることを「発見」していた。中学、高校の時はfぼろげではあったが大学の頃はかなり明確にはなっていた。もちろん上に述べたことが全てではない。
独力とは言っても独自ではなく、もちろんずっと昔からそういうことを発見していた人はいたが、それが一般の精神科医には理解できず少数派だったということである。今は極少数派だけど。
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とてつもない芸術的表現をする子供もたまにはいるし、それは自分の中になければ表現できないはずで、少なくとも他者には伝わらないはずだ。その感性は子供自身のものであるより大人の投影という面も大いにあるだろうけど。
私に関してはそのような才能はからっきしなかった。もしかするとないではなく発揮できなかったのかもしれない。引き出す環境があったら発揮できるわけでもないだろうけど。
私に限らず殆どの子供はそうなのかもしれない。
当然のことながら、もちろんその女生徒に対する感性や認識も私自身の投影という面はあった。
ちょっと自慢になってしまうのかもしれないけど…、今わかっていることの多くは基本的には当時もわかっていた気がする。というより子供というのはそういうもんだ。
私自身はそれから40年以上、そのままの延長で来ているだけである。治療法を身に着けたのは、それから20年ほど後だが。
精神科医とて子供の頃は同様の感性や洞察、そうした才能・才覚があったのではないだろうか? 
いつの間に「心を折った」のか? あるいは徐々に認知がねじ曲がったのだろうか?
おそらくは本人も気づかないうちに。
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結局、彼女とは3年間同じクラスになったことはなく、話したこともないし声を聞いたことさえ多分ないし、何らかの噂を聞いたこともない。彼女とのかかわりは同級生というだけで、廊下ですれ違ったり校庭で見かけたりする以外の関係はない。
小さい中学だったので、何がしかの問題を起こしたり奇妙な面を露呈すればもちろん周囲に伝わるはずだし、そうでなくとも殆どの生徒のことは何かと噂にはなり、決して目立つ方ではなかったが私のことを全く覚えていない同級生も多分いないはずである。
彼女は存在感薄く全く目立たず殆ど話題にもならず、3年間特に問題になるようなこともなかったに違いない。教師ならもしかすると病気に関して何がしかのことを知っていたのかも知れないが、そのような教師がいたとも思えない。要するにその段階ではまだ発症していないはずである。
彼女は高校には進学したはずだけど、どこに行ったのかも知らないし、その後の消息も知らなかった。中学卒業以来、記憶には鮮明に残っており、(自分の頭のハエも追えないくせに)頭のどこかでは薄々とはいつも気にかけて心配もしていたが、その後30年ほど最近まで噂を聞くこともなかった
最近(といっても数年前)同窓会をやるために同級生の消息を調べた折に、同級生の一人から聞いたことは…
「確か…、随分前に親に殺されて事件になった」というのである。
やっぱりそうか…、そういう結果になってしまったか…と。
さすがにそこまで具体的な予想をしていたわけではないのだが。
詳細はいまだにわからないが、やはり発症し精神科を受診して入退院はしていたようである。
大学に進学したのかどうかも知らないが、察するにおそらく仕事も結婚もできず、ひたすら精神的に追い詰められていたのではないかと思う。
おとなしく気の弱そうな子だったが、親に対する暴力くらいはあったのかも知れない。(窮鼠猫を噛む)
私は大学以来地元からは離れていたし、新聞もテレビも見なかったので事件については知らず、同級生とはそれなりに付き合いを保っていたが、彼女の噂も全く聞いてはいなかった。
皆そのことは知らないか、もしくは隠ぺい記憶のようになっており、そのひとりの同級生以外は誰も彼女のことを口にするのは聞かなかった。
首都圏近郊だし住宅地として発展した場所なので、殆どの同級生は地元からそう離れていないのに。話を聞いた同級生でさえ記憶ははっきりしていない様子だった。
彼女と小学校も同じだった友人に聞いてみたら、彼も地元からは離れており、やはり亡くなったことは知らず、彼女のことは中学の頃は覚えていないが、小学校の時の様子は良く覚えていた。
子供の頃は利発で良い子で真面目で優秀だったという。中学の時はそうでもなかったけど。
私が初めてフロイトを読んだのも、日本医師会会長・武見氏の「精神科は牧畜産業発言」を知ったのも、中学の時である。向精神薬害についてもごく基本的なことだけはわかっており、精神医療の現状についてもある程度の察しはついていた。
精神疾患についての専門書もいくらか読んだことはあるが、「こいつら何にもわかってねー、クソの役にもたたねぇ」ので、それ以降は読んでいない。後に専門学校の試験や国家試験もそれだけでクリアした。
従って、精神科医になりたいなどと思ったことは一度もないが、紆余曲折あって20代後半には精神医療関係に従事することにはなり、現在に至る。
もちろん自分自身のこともあるが、彼女のことも無関係ではない。
ついでの話だが、一目ぼれというか気になった女の子は、いかにも家庭環境も良さそうだった。
30数年後同窓会で会ったときには、私も幹事をやったのでずいぶん感謝された。この人とも同じクラスになったことはなく、話をしたのはその時だけである。
あまりデキは良くなかったはずだが、いかにも幸福な家庭をもっているようだった。
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第110回日本精神神経学会学術総会 横浜パシフィコ 参加記

第110回日本精神神経学会学術総会 横浜パシフィコ
歩いて行ける位のところだから散歩がてら行ってみた。
学会なんてもう20年以上も行ってない。精神医学の学術関係誌も20年くらい読んでいない。関心もない。
実は先週も同じ場所でリハビリ関係の国際学会があったので来たけど、そのときは中には入らず。
昔の恩師と約30年ぶりにお会いして、つもる話を何時間も。他に数人の友人・知人と会った。
最近の精神医療の動向にもあまり関心はないし、特に知る必要もないけど。
患者からある程度、情報は入ってくるし、2~3のブログを見るのと、本屋の立ち読みだけで十分。
反精神医療派の人がビラでも撒いていたら、精神科医の反応でも見ながら手伝おうかと思ったのだが、そういう人もいなかった。
右翼の街宣車も来ないし、もちろん左翼も来ていない。立て看板も出ていないしアジ演説も、もちろん炎ビンも鳴かず飛ばず。金沢学会、今いずこ?
本来なら暴動くらいあって当たり前だが。
どうせ、抗うつ剤のアクチベーション・シンドロームで刃物やアイスピックを振り回したり、銃をぶちかましたり、車で突っ込むなら、ここに来れば良いのに。何の関係もない人を巻き込むよりはマシである。
もちろんテロを奨励するわけではないですよ。念のため。
俺は金持ち喧嘩せずですからね。何とか窮乏生活を脱して、老後にも備えなくては。
すでにすっかり世代交代しており、名前を知ってる人は『先達に聞く』という講演くらいにしか出て来ない。
他に知り合いも参加していたはずだが会いたくもなし。精神科医との付き合いは意図的にずっと避けてきた。
村上陽一郎さんは何を話したのか?抄録を見る限りではありきたりの内容。
彼の本は高校、大学時代にいくつか読んだ。
当時はかなり極端な反科学技術、科学批判の立場だったので彼の本を読んで頭を冷やした。
岩崎徹也はすっかりしょぼくれていた。昔は翻訳本ではお世話になったが。そんなに年寄りっぽくもなく、今でも恰幅は良いのだが。
とっくの昔に枯れた花に水をやるように、グチグチと昔語り。
現代の生物学的脳病派精神科医に媚を売り許しを請うような話しぶり。聞き入る人も殆どなし。
精神分析派といえどもぜんぜん治療はできず、学派も縮小、凋落させてしまったから、後ろめたさもあるだろうし小さくならざるを得ないのだろうが、謙虚というよりもはや姑息でさえない。
結局のところ、治療者ではなかったし、学者・研究者としてもコレといった業績も残さず人生を終えるのだろう。
牛島定信に至っては、何と!大人のADHD! 今までいったい何を勉強してきたのだろうか?
この人にも翻訳本ではお世話になったが。
精神科医を教育するのは、医学部教師や先輩医師ではなく、製薬会社の営業マン(プロパーじゃなくて今はMRって言うのか。何の略だ?)だと言われるようになって久しい。ロートル精神科医も製薬会社にすっかり洗脳されており、むしろ後を追うだけで精一杯だ。
中根允文が、石田昇のことを話したようだがそれは聞かなかった。
石田昇は精神病ではなく脳病ですよ。
似ているようで発症年齢も違うし、妄想内容も、問題行動のパターンもまったく違う。
精神疾患を脳の病気としてしまうと、中枢疾患のこともわからなくなる。
秋元波留夫が精神分裂病と書いたのは、ホントにそう思ったのか(誤診)、石田昇の名誉のためかは知らないけど。
脳梅毒:みっともない恥さらし、精神分裂病:悲劇の主人公、ロマンチックな狂気、というイメージもとっくの昔に風化した。
成田善弘は、若い医者に何か物申したのかな?抄録を見る限りは今さらで、何かというほどではないだろう。
山下格はなぜかヤスパース。村井俊哉の多元主義(という袋小路)の影響でもあるまいに。
出版社も岩崎学術出版や、みすず書房はブースを出していなかった。
サールズの「精神分裂病論集」の翻訳はどうなったかね?岩崎は左前か?
井原裕は今回は何を出すかと思ったら、おとなしくなったようだ。そこそこの地位を得たらあとは自己保身か。昨年度は時の人でもあり、「精神医療批判は国民の義務」ということで流行語大賞も取ったはずだったが。
サイコドクターSさんの発表があったので聞いてみた。やはり皆、無視、シラーっとした雰囲気。
面識はないが俺のことは認知しているはずなので話しかけてみた。
私は医者ではないし、彼とはいろいろ相違があるけど、今となっては俺とは一番近い立場の精神科医だろう。
ブログに書いてあるようなことをまくしたてて去って行った。
すでに論文のいくつかは見ているし、ブログも時々見ているので、特に話が聞きたかったわけでもないけど。
27日は仕事で行けなかったが、28日は一駅先まで行って、反精神医療派のデモにくっついて歩き、そのまま学会場へ。
あの辺は人通りも少ないし、デモなんかやるよりスーローガンを書いたTシャツでも着て参加し、質問でもしまくれば良いのではないか。ユーザーという事なら3日間、千円で参加できる。
面識はないが、CCHRの人が数人かな。盛況ではなかったが、それでも100人くらいはいたかな?被害者やその家族が多いようだった。
サイエントロジーか何だか知らないが、有名らしい外国人も来ていた。
しかし、いまさらサズはないよなぁ。クーパーやレインなら、精神病者に対するそれなりの洞察や理解もあったが。
こんな状況だからこそ、今こそサズだ!というのも一理あるが、支持もあまり得られないと思う。
それなりの組織を作って残したのはたいしたもんだが。
北山修の話は教育講演とはいえ入門書以下、せいぜい一般教養科目でやるくらいの内容だ。
やはり、精神分析臭は抑えて、聴衆に擦り寄ったような話しぶりで、そのためか感心して聞いているような人が多いようだった。
我々が若い頃は、社会科学系の学生でもたいてい「精神分析学入門」くらいは読んでいたから、あれじゃ物足りなくて授業にも出ないだろう。有名人でも1回見れば十分。サボってマージャンとかパチンコとか、最近の学生はそんなのやらないか?
当時の私にとってはまだ精神分析は期待や羨望と畏れの対象でしたが。
その頃、よく読んでいたハーバーマスやフランクフルト学派の人が、精神分析を受けて、不安や葛藤、たいへんな精神的苦悩克服したばかりでなく、多くの優れた学問的インスピレーションも得た、といったことなどもいろいろ見聞していた。もちろん書物の上のことに過ぎないが。若い頃はそんなもんです。
もちろん既に薬物療法の問題は知っていました。
私の友人に慶応法学部の学生がいて、精神分析研究会のようなサークルに入っており、顧問が小此木啓吾だったか、小此木とは面識があり、「あんなやつダメだ!全然わかってねぇ」と言っていた。知識の量はともかく、若気の至りばかりではなく実際彼のほうがレベルはずっと上だった。
全く別の友人(早稲田の学生)は書物を読んで精神分析の第一人者だからと、小此木のことを尊敬しており、実際に分析を受けたのだが、やはり激しく落胆しまくっていた。
だいぶ後に小此木と親しい精神科医とも親しくなったけど。
米国など本場に行って勉強したり分析を受けても、大して得るモノがないことがわかったことは彼らのおかげだ。無駄な時間や労力を使わずに済んだ。
精神分析はたくさん読んで本を勉強して、精神分析オタクになってもわかるものではないが、外国に留学してエライ精神分析学者に教育分析を受けても身につくとは限らない。
精神分析は基本だけで必須にして十分だ。歴代の精神分析学会会長、学会のお偉方といえどもその基本ができていない。
フロイトは精神分析を治療法としては追求せず、探索法、研究法としてしまった。そうぜざるを得ない理由も十分にあったのだが、今日では治療からはすっかり離れて学問的意義さえほとんど失われてしまった。
最近、北山修が出した『意味としての心―「私」の精神分析用語辞典』という本を立ち読みして唖然としてした。
抵抗も防衛も転移も乖離も出て来ない。防衛機制はあるが、そんなの中学の保健体育や、高校の倫理社会の教科書にも書いてあるはず。
精神分析が治療は回避し続け、行き着いた所を象徴的に示している。
精神分析は治療にほとんど関係のないどうでもいいことばかりを重視し、治療に必要な大事なことは軽視、ないがしろに、というよりも否認、無視してきた。
小此木や北山に限らず、日本だけなく世界的にもその傾向がある。
精神分析の凋落の原因は、DSM信仰、脳病薬物神話に押しつぶされてきたが、精神分析派自体が自己撞着、自壊していったという面もある。
細々と伝統芸能、自由連想法なんぞ続けるのか? 芸能人だし。
自由連想法は探索法・研究法で会って治療法ではない。
ガキの頃はフォークソングファンだったし、北山修には憧れていたけど。
「あの素晴らし愛をもう一度」を初めて聞いたときは、向こうから走ってくる車の中から聞こえてきたのを
一瞬で北山の新曲だと理解し(当時はエアコンはないので窓は開けてた)、すぐさま自転車を180度ひっくり返して砂利道を追いかけて、埃はだいぶ吸ったが、4小節くらい余分に聞けた。1ヶ月もしたらラジオでも頻繁にかかるようになったけど。
ギターもどう弾いたらよいかわからず、スリーフィンガーはなかなか弾けなかった。あれは録音テープ早回しだと後になって知ったけど。
もっともフォークギターは買えず、姉のお下がりのネックが幅広のガットギターだったけど。
歳をとると妙なことを思い出すなぁ。
「北山修のように心を隠せば、歌の文句なんて誰だって作れる次第である」 早川義夫 ex.ジャックス
新譜ジャーナルで、早川義夫のエッセイを読んで、ふうん、そうか、なるほどね、と思ったのはその後か、中学2年の頃だったか。彼はいつも役者である。
治療ちゅうもんはそんな甘いモンやおまへんでぇ~、もっとまじめにやれぇ~
詞は昔より近年のほうが良いと思うけどね。
北山に限らず、精神科医は中身はなくても口だけは達者だ。
市民公開講座は、斉藤環と野村総一郎、まったく一般人をバカにした内容。
精神科医は尊敬されてしかるべきと思っているのか。そういう人もいることはいるが。
斉藤環がスライドに自殺者数のグラフを出していた。1998年を境にぐんと自殺者数が増えているので、それを100とするのが一般的なようだ。
彼は自殺者の増加については触れず、理由を経済的問題としたいようだったが、減っているとは言え若者はまだ増えているので予断を許さない、と言う程度で、それまで堂々とした話しぶりだったのが、急に小声になり口ごもったようになり、さっさと次の話題に変えて、スライドも変えててしまったのが印象的だった。
他の精神科医の発表も同様だったはず。
自殺者増加の理由は言うまでもなく、「うつ病キャンペーン」で患者ではなく受診・服薬者が増えて、SSRI新型抗うつ剤等によるアクチベーション・シンドローム(賦活化症候群)を起こしたせいです。
自殺者の増加と最近の微減についてはこちらをご参照ください。
http://68631324.at.webry.info/201301/article_2.html
UさんやSさんは優性思想と言うが、一般の差別主義者は精神病者は劣った者という考えだろうけど、精神科医は自分たち以外の一般人は全て劣った者という考えなんだろう。何でも病気にして侵害したがる習性はそこから来ているのだろうし(それが最も大きな理由だとも思わないが)、そうでなければ向精神薬害がこんなに拡大、蔓延することもなかったはず。
まったく身の程知らず。視野狭窄も甚だしい。自画自賛、手前味噌、虚言だらけ、お互い先生先生と持ち上げるのみ。
仕事もしたことがなく、社会にも出たことがないんだから、引きこもり以下かもしれない。引きこもりはネット見てるし。
終わってから反精神医療の人が若干名、野村に詰め寄っていたが、逃げられたようだった。
ちょっとビックリしたのは、鯖の油とかけっこう本気で言ってる人がいたこと。身体にはいいかも知れないが。
アロマとかレメディとか、毒にも薬にもならないような民間療法、代替療法を取り入れたり。
kyupinだけじゃなかったのか。彼の影響か?
そういうのは医者はバカにするもんだけど、それだけ手詰まりなのでしょう。
それと、医療用覚せい剤、電気ショックかけまくり、磁気刺激や、さらにはチップ埋め込んで深部脳刺激などに向かいたい人と両極に向かうのか?
私のほうは民間療法だけど、代替療法、代替案ではなく、本案なので擦り寄ってくる人も殆どいませんが。
ゼプリオン問題は全く無かったかのように否認。
緊急教育講演「ゼプリオン投与中の死亡例から、我々はなにを学ぶべきか?(薬事委員会)」というのをやったらしいが、その程度でお茶を濁すのだろう。
去年の秋から報告されている32人死亡(もちろんもっと増える)だから、来年は否認にするのがたいへんだ。「共同幻想論」吉本隆明
ゼプリオンの影響もあるのか、全般に昔に比べても、どの発表もお座なり感、満点だった。
昔、若い頃は精神科医もバカや悪人ばかりでなし、薬物など野蛮なものはさっさと廃れて(電気ショックECTは既に廃れていたのだ)、精神療法中心になるだろうと楽観的に考えていた。 んで、俺はその上を行こうと。
自慢じゃないけど俺の予想はたいてい当たるのにすっかり外れた。
とはいえ、随分時間がたってから当たることが多いし、そう悲観したモノではないかとも思う。
Sさんも楽観的に考えているとは言ってた。
Sさんはブログの印象よりはずっと優しそうで、腰も低く人当たりも悪くないですよ。ホントです。お世辞じゃありませんよ。思ったより背も低かったけど。
彼の毒舌がうつったみたいですけど、私も優しい先生ですので誤解なきよう。
いつも精神科医をバカにしたような悪口みたいなことばかり書いてますけど、分析派は精神科医の中でもマトモな方です。
私の方が精神科医より優れているところなど殆どありません。頭も良くないし勉強嫌いで怠惰とくれば当然ですね。でも今となっては北山修より楽器はたぶん上手い?
精神疾患の基本がわかっている、確かな治療法をもっているというだけです。
ホントです。謙遜しているわけではありません。もちろん自慢でもなし。

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薬に頼らない不安の解決法、解消法、対処法、克服方法

薬に頼らない不安の解決法、解消法、対処法、不安を克服するには

 誤解を恐れずに言えば…
 対人不安、対人恐怖の人は、得てしてむしろ相手を不安にさせたり緊張せさせている。そのつもりはなく、敢えてそうしているわけでは結果的にはそうなっている。
 自分が不安にならないようにするより、人を不安にさせない、緊張させない、恐怖を与えないようにできれば不安は解消します。
自分を不安にさせる相手は、その相手自身が不安なのです。
 ヤクザなんかは自分がろくなことをしないので、不安でたまらない心の小さい人間です。当然、ホントの意味では人によく思われてはいません。
自分がちっぽけで、小さい人間なのでやっていけない。
不安にならないようにするためには、人を威圧したり脅したりしなくては生きていけなくなる。
 対人恐怖、対人不安の裏返しで、解決になるどころか余計に良くない悪循環です。
 偉大になるには、人に優しく親切に人のためになることをしなくちゃいけない。そういう人は、尊敬されるし好かれているし、不安はあまり持たなくてやっていくことができます。
※不安を受け入れ理解することが大事。
もちろん過去の影響から繰り返し起こってくる不安は受容した上で、 自分の心の中で処理しないと、その影響から逃れることはできません。
もちろん、不安は不安でいいのですが、不安を認め 受け入れるた上で、不安を解消するということを前提として、不安を克服していく必要があります。
生きていれば不安も危険もありますが、進むも戻るも立ち止まるも危険極まる、 崖っぷちばかりを歩き続けることはできません。
人生を山登りに例えると、コースの難易度も技量も条件もいろいろだし、 遭難予防も、万一遭難した場合の対処法も必要です。
患者は遭難者とすると、向精神薬は餓死寸前の遭難者に毒まんじゅうです。
毒まんじゅうを食べてはダメだというなら、その代わりにどうしたらいいのか?
不安であっても、不安に取り憑かれて、不安に潰されないようにするにはそのための方法を持たなくてなりません。
とてつもない不安に圧倒され、生死の境を彷徨い続けるような場合でさえも…、基本的には同じはずです。
※不安の現実的、現在進行中の側面に対する対処

不安そのものを解決するのではなく、人間関係や仕事や日常生活の 様々なことで、不安の要因となることを解決する。
不安があるから上手くいかない、のではなく、上手くいっていない から不安になる。少なくとも前者の考え方では一歩も前進しない。
不安の強い人は、無自覚に自分で不安を作りながら、解決しようとは しない傾向があります。とりあえず、身近な小さくても可能なことから。
よくわからなければ、人に教えてもらうのも良いでしょう。
 日常的なことをひとつひとつきちんとやる。
 不安にならなくていいのに不安になってることを発見することも必要。
 物事はなるべく練習、準備したほうがイイ。
例えば、今度のスピーチが上手くいくか不安、という人に限って 練習準備が不足です。その前に普段の努力も必要ですが。
※不安の幻想的、過去に起こったことの側面に対する対処
幼児期に親から与えられた不安、殆んどのことは覚えていないはず。
親が心配性だったり不安が強いと子供に影響します。
また、幼児期は親が不安を解決してあげなくてはいけないのに、 それをせず、余計に不安にさせたり、脅やかしたり。
それが悪い催眠術のようになって影響し、大人になってからも 不安の強い人、自分で不安を解消できない人、になってしまいます。
そこをよく理解洞察し、なるべく過去の影響を対象化し、心の中で処理して、 自分で不安を解消、克服できる人になりましょう。
※誰でも不安がある。不安の解決も必要だが、不安があっても
 やっていけるような、心の大きい人間になれるように努力しよう。

 
不安な時こそ笑えなくても笑おう。
 表情筋だけでも笑いをつくる。ニーっと口角を持ち上げる運動。 「はっはっはーっ」などとなるべく大きな声をだす。
 肉体労働や、山歩き、自転車など軽い継続的な運動もイイ。
※自分が不安でも、周りの人の不安を和らげてあげましょう。
 不安の対処方法を身に着けた人は、それが得意にもなりますが、実は逆に自分よりも他人のことを思いやることがが、自分の不安を解決する近道だったりします。 不安克服の王道というべきか。
 他人のフリ見て我がフリ直せです。自分のことはわかりにくくても人のことはわかりやすい。でも、実際に人の不安を解消するのはどうしたらいいのか?難しいことですが勉強になります。
※不安な時こそ笑っていこう。
不安な時こそ、笑えなくても笑う、引き攣ってでも笑う、というのはもちろん 心理学的根拠だけでなく、医学的根拠があります。
※人間にとって不安は必要なことでもあります。
不安は身体の発熱や、痛みと同じようなものかも知れません。不安それ自体が悪ではないし、むしろ必要です。
熱には解熱剤、痛みには鎮痛剤だけでは患者は死んでしまいます。
不安を消すには抗不安薬というのは、解熱剤や鎮痛剤よりも効果が得難いだけでなく、危険なのは言うまでもありません。薬で不安が解決するわけはない。
不安がない人間がいたとしたら、熱も出ない、痛みも感じない人間みたいなもので、まともに生きていくことは出来ません。人間、進歩、向上、しようとすればこそ、むしろ不安は大きくなります。同時にその不安を克服することが、成長、精神的成熟でもあります。
当たり前のことを言ってるようで説教がましくなってしまったかもしれませんが、こうした不安の対処や克服がうまくできる人とできていない人がいると思います。

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