「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」 魯迅

「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」 魯迅

それなりに広まっている言葉ですが、これはどういう意味でしょうか?

私は精神病が酷くて本もほとんど読めませんでしたが、この言葉は高校時代から知っていました。友人の家の板書にこの言葉が書かれており、部屋に掲げられていたからです。
「絶望ノ虚妄ナルハ希望ト相同ジナリ」と書いてあった気もしますが、漢詩だったかもしれません。

友人の父親は文学者で、フランス文学やイタリア文学の翻訳なども多数手がけていました。二十年くらい前にベストセラーになった「他人をほめる人、けなす人」という本も翻訳しています。
有名な書家だったか彫刻家の人に彫ってもらったそうです。

これは「絶望が虚妄であるのは、まさに希望であることと同じだ」と言う意味なのか「絶望が虚妄であるのは、まさに希望もまた虚妄であることと同じだ」のどちらだろうか?と長年疑問に思っていました。

前者であれば、「絶望なんて虚妄なんだから、絶望するなよ。希望は(虚妄ではないから)希望を持ちなよ」、とか、「絶望が虚妄だということを知れば希望が持てる」、などと言ったことも考えられます。

後者と考えると、「希望を持つことはイイことかも知れないけど、虚妄なんだから浮かれてはいけない、冷静になるべきだ」、「人間の想念なんて虚妄にすぎない、思いや感情にとらわれるものではない」、といったことなどが考えられます。

しかし、深く深刻な精神疾患に陥った人は、「希望なんて虚妄だ」とは考えられても、「絶望なんて虚妄だ」とはとうてい考えられず、希望は持てないのではないでしょうか。

「虚妄」こそがまさに実体というべきでしょうか?
どちらかと言えば、私はそのまさに「虚妄」を対象にしているわけです。

「虚妄」なんだから無いじゃないか、と考えては何の進歩や解決にもならず、少なくとも「虚妄」には根拠があり対処も可能と考えなければ、私の場合は仕事にもなりません。実際に対処可能で成果も大いに出せています。

要するに「無意識」は「ある」ということにも通じるかもしれません。
無意識のことは子供の頃から何となく無意識は「ある」とは思っていましたが、中学のとき(たぶん)保健体育の教科書に防衛機制のことが書いてあるのを見たり、中学3年の時にフロイトの「精神分析入門」を読んで確信しました。頭では理解していたとも言えます。

とは言え、実際に無意識のことがわかったのは、大学4年の時に元師匠となる人に、このセルフ・セラピーの基になるセラピーを受けた時です。
知識はあってもその時の体験は、眼からウロコなんてもんじゃなかったです。このブログに書いてあることの殆どは、その時に得たことかもしれません。

精神分析に詳しい人でも、もしかすると精神分析学者でも、無意識のことは実際にはわかっていないかもしれません。

私には物質が実体であるよりも、形而上的なこと、メタ・フィジカルなこと、もしくは精神こそが実体であるように思えてならないのです。「実体」という言葉が適切かどうかはわかりませんが。

最近マルクス・ガブリエルが流行っており、物質主義、神経中心主義を批判しています。俺は昔からこれが言いたかったんだ!なんて思いながら読んでいますけど、「私は『脳』ではない」は面白いです。