統合失調症

【統合失調症】



統合失調症について

統合失調症こそ脳の病気と考える精神科医も多いですが、もちろん中枢疾患ではなく精神疾患です。脳、中枢神経の働きと精神、心の働きは不可分一体のものであることを前提に、脳の病気と精神病を峻別することができたのことが、二十世紀の精神医学の最大の成果だったはずですが、このことが理解できた精神科医は少なく、何の根拠もなく遺伝病、脳の病気としてきました。

もちろん遺伝的な脳の特質が関係ないわけではありませんが、それはどんな人でも人それぞれ影響するわけで原因になるわけではありませんが、病気になりやすい、というより病気にされやすい特質的な傾向はあるかも知れません。

かつて精神分裂病と言われましたが、2002年8月に名称変更されて統合失調症と呼ばれるようになりました。やはり差別的でネガティブな印象を与えるという理由が大きいかと思います。

かつて、精神分裂病と言われた頃は、それ以外の精神疾患と明確な一線があるかのように見える場合が多かったのですが、統合失調症と名称を変える頃には、病像自体もずいぶん変化がありました。

かつて精神分裂病と言われた頃は、多様であっても一定のまとまりのある疾患単位として考えることもできましたが、今日の統合失調症は多様であるだけでなく神経症等他の精神疾患との区別も殆どなくなり、典型的な統合失調症と言える人は殆どいないと思います。

今日では重症でなくても幻覚・妄想のある人もいますし、一過性のストレスでも現れる場合もあります。他の精神疾患も軌を一にして、病像の変化はそれなりにありました。

また時代と共に変化があり、前世紀の疾患分類も19世紀の終わり頃に成立したものに過ぎず、社会や文化、生活様式、人々の考えや価値観、精神的なあり方によりずいぶん変わってくるのは当然です。それ以前はおそらく「狐憑き」などの憑依精神病のようなものが多かったと思われますが、今でもそのような人はいます。

フロイト時代のようなヒステリーも当時のヨーロッパの状況を反映し、戦後には典型例は殆どいなくなりました。ヒステリーの症状自体は今も多く、珍しくも何ともありませんが。

私は少なくとも1980年より前に、近年のような病像の変化も予測していましたが、殆どの精神科医は時代の若い人も含めて流れについていけませんでした。そのため幻覚・妄想があれば直ちに統合失調症とされ、向精神薬は何でもアリになってしまいます。

むしろ重症な人は減ったのですが、保護室に閉じ込めたり拘束することは増えました。やはり薬物の影響によるところが大きいはずです。


統合失調症の原因

一般的に統合失調症の親は一見きわめてマトモでむしろ立派に見えます。その子供もまた発症するまでは多くの場合、マトモすぎるくらいマトモです。少なくともたいていの場合はそう見えます。仮に家庭の中を覗いて見たとしても、やはりそう見えるかもしれません。

虐待というのには当てはまらず、殆どの場合、暴力はないし遺棄でもなく、言葉の暴力でさえなく、敢えて言うなら有害感情による暴力かもしれません。もちろん激しい虐待が伴う場合もあります。

「人はパンのみにて生きるに非ず」

やはり幼児は親の愛情を伴った働きかけがなければ、まともな発達はできません。

統合失調症の原因はもちろん1つではないでしょうけど、誤解を恐れずに敢えて言うならば「愛情剥奪」と言っても良いかも知れません。

統合失調症の親は必ずしも愛情がないわけでも薄いわけでも与えないわけでもなく、どちらかと言えば愛情を与えて剥ぎ取るのです。その分を取り返すかのように、というよりも利子以上の分も暴利を貪る高利貸しの如く、かも知れません。

納得がいかない人は、失恋を考えるとわかりやすいかもしれません。
恋愛関係も幼児と親子の関係も、相互的な愛情関係ではありますが、いわば、いつも失恋を繰り返しているようなものです。
失恋が人により、いかに精神的なダメージを与える場合があるのは、想像できる人が多いと思います。失恋も発達期に愛情を得ていれば、それ程精神的なダメージはなく、精神の修復は可能ですが、そうでない人にとっては激しい「愛情剥奪」になってしまいます。
もちろん失恋だけでなく婚姻関係の破綻も同様で、それまでの相互的な愛情関係が深ければ尚のこと傷つくかもしれません。

ただ単にこっちが好きでも相手にその気なし、脈なし、つれない態度や返事だけなら、ガッカリしたり落ち込んだりもするでしょうけど、それほど傷つくわけではなく、あっさりと諦めもつくでしょう。またしばらくして口説けば相手も気が変わるかもしれないし、こっちも執着はしていないので、今度は他の人を対象にしても良い。
しかし幼児にとっては親を変えることはできないし、できたとしてもやはり継続的な良い愛情を得ることは難しくなります。

しかし、ひどく傷つく場合は相手にも愛情があり、一時的にではあっても深い相互的な恋愛感情に基づく精神的な関係があった場合です。別に嫌われたわけでもなく、単に相手が心変わりしただけでも激しく傷つくことは、経験のある人ならわかると思います。

それは幼児期のトラウマの再現にもなります。恋愛関係は常に転移・逆転移関係でもあり、陰性転移と陽性転移はコインの裏表のようなものでもあります。


※『理論-精神分析>感情転移』をご参照ください。

『サリヴァンの精神科セミナー』みすず書房にはこうした会話があります。

ライコフ:そうね、今はやる時じゃないが、いつかは、例えば自我変化を起こす自我容量の水準が何であるかを論じたい。これは僕自身のためでもある。僕が何年かを共に過ごした統合失調症の家族の全部だが、家族も患者とまさに同程度にクレージーだというのがほんとうだ。思考障害も同じことだ。R.D.レインなどが出している膨大な資料はもう古い。家族の中では実際に統合失調症が全く正常(ノーマル)だということは、われわれの多くがたぶん前から知っている。しかし、父親、母親、兄弟たちが(患者と同じように)精神科病院の同じ病棟に入院していない事実をどう説明する?あの連中はクレージーなのに(普通の人間が)するとされることは全部している。自我能力がそれを可能にしている。なぜか思考障害の封じ込めができている。
クヴァニース:--もう終わる時間だよ。

というわけで、話が佳境に入ってきたところで唐突に対談は終わっているのですが(時間の問題じゃないだろ)、少なくとも中学の時から私はそこで思考停止にはしていない。R.D.レインの『引き裂かれた自己』を読んだのは高校の頃であったが。

どんなに病んでいる患者よりも、どんなに表面的には健康に見えて適応性があっても、親の方が病んでいる、とは昔から言われていたことでした。
患者の親とは(とくに重症患者の)患者を援助あるいは癒そうとする者にとっては時にかなり恐ろしい人物である。もちろんそうでない場合もあるのだが、一見、立派でマトモな人物に見える親の方がその傾向がある。

といっても、「患者を援助あるいは癒そうとする者にとっては」ということはあらためて強調しなくてはならない。そうでなく、「患者は脳の病気で異常」を前提に、無難に接しようとする者にとっては、たいていの場合、常識人でありむしろ紳士淑女的でさえある。そのため患者が治療的に有用な援助をうけることを遠ざけ、より困難にもしています。

甚だしい幻覚妄想に支配されたり、奇妙な言動や問題行動の見られる重症の患者でさえも、家族の中に置いてみると、とても人間的というかヒューマンな慈愛や優しさや思いやり、反面、傷つきやすさや悲哀といった、本来人間にあるべき人間性を純粋に持っているかのように感じられ、親には欠落してるように見えるる。実際には欠落しているのではなく解離しているのですが。

この問題は精神科医には気づかれ難く、今は殆どの精神科医も知らないことだが、昔は薄々とではあっても多くの精神科医にも感じられていたことであり、「力動派」にとってはむしろ「暗黙の周知の事実」となっていた。もちろん誰にでもわかるような「エビデンス」が得られるようなものではないが。

そこには「陽性転移」の問題も、それに対する治療者側の反応もあるのは注意すべきで、それを踏まえたうえで理解が必要です。
そうした洞察や理解がなければ、病気の人は「良い人」なのに、激しい虐待の再現されてしまうのを防ぐことはできません。虐待とは不当な抑圧、拘束、暴力もありますが「薬漬け廃人化」も含まれます。

フロムライヒマンの「人間関係の精神病理学>分裂病を作る母親」や家族療法(リッツ、アッカーマン、ミニューチン)や、レインの「引き裂かれた自己」「家族の政治学」などを読むと、そうしたことを認知し考えていたのは俺だけではなかったか、と大いに勇気づけられはしましたが、ではどうしたら良いか?少なくとも確かな方法はありませんでした。

こうした考えは当時はそれなりに理解、評価されており、だからこそ訳出もされていたのだが、今ではこれらのものは「荒唐無稽なもの」として退けられています。
精神科医はレインを否定はしても、知りもせず読んでもおらず、彼から何も学んでいません。フロイトからも精神分析からも、ですが。臨床心理士や心理カウンセラーも、患者も然り。

レインなどは試行錯誤したものの結局のところどうしていいかは無く、どんどんおかしくなってしまったのですが。
結局のところ今日は全否定というより全く無視されいますが、精神病の理解にはかなりのレベルに達しており、典型的な「精神分裂病(統合失調症)」のいなくなった今日こそ(でさえ)、毀誉褒貶(というより褒貶ばかりだが)はさておき、再評価・検討すべきでしょう。

※なぜ、幻覚や妄想が起こるのか?
昔もそれなりに理解していたつもりだったものの、今も上手く説明できわるわけではないので恐縮ですが、少し書いてみます。

幼児期において、特に認識主体と客体、自分と他者、外界と内界、自己と対象、睡眠と覚醒、現実と幻想といったことが、十分には区別がついておらず、まだまだ未分化で自我が確立していません。
こうした(一次過程が優位な)段階で、極端な愛情剥奪を受けると、大人になってから(多くは思春期~青年期)ちょっとしたショックな出来事やストレスや不適応など、些細なことでもあっけなく精神が崩壊し統合失調症を発症し、幻覚・妄想といった症状も現れます。

これといった誘因(きっかけ)がある場合もありますが、多くの場合、普通の人なら特にショックを受けるほどでもないことですが、発症の誘因は多くの場合、内面化されたトラウマの再現でもあります。
一旦、ある程度自己が確立し、普通の子供よりもむしろしっかりした発達を遂げているかのように見えますが、土台がしっかりしていなければ砂上の楼閣の如しです。

「(自愛的ではなく)他愛的な子供は身を滅ぼす」、「手の掛からない子供ほど危ない」とは昔からよく言われていました。将来重篤な精神病になる子供は発達期に問題がなく、手が掛からないゆえに、表面的な問題はなくても発達の機会を失っている、という場合も多いです。いろいろ問題がありつつも親も子も、試行錯誤し乗り越えていくのが発達過程でもあるのでしょう。

幻覚・妄想といえども脳の異常によるものではなく、普通の人には無いことが起こるわけでもなく、生後数か月レベルの幼児の精神構造への退行・固着ということです。普通の幼児の精神状態と違って、はるかに強大な不安や恐怖に支配されたものですが、構造的には同様と言えます。

幼児の幻覚や妄想にも現実的な影響による意味もありますが、患者の症状には過去の影響が多く働いています。そこを追求することは必ずしも得策とは言えませんが、決して荒唐無稽なものではなく、過去と現在が重なったような現実的な理由もあるということです。

十分に自己が確立した人なら、覚醒時には意識から排除できており、睡眠時に悪夢のような形で起こるようなものです。寝ぼけているときに幻覚・妄想があるのは普通の大人でも普通に経験することでしょう。

覚醒時における人との関わりや物的対象の認知も生き生きとうまく関われていれば、覚醒レベルも保たれ、そこに幻覚の侵入する余地もありません。しかし、周囲のものごとや人物、あるいは社会やこの世のあらゆるものが、恐怖に満ち不安をかき立て、自分を追い詰める脅威となることなら、そこから意識は引けてしまう。見えていて見ない、聞こうとしても聴けないような状態になってしまいます。そこに解離した思考や感覚が張り込み、影響、支配されてしまいます。

統合失調症の状態は、もちろん寝ぼけているのとは違うのですが、半覚醒状態と言えなくもないです。普通の人が意識清明の時でも100%の覚醒は無いのでしょうけど。幻覚・妄想は覚醒時の意識に侵入する夢のようなものでもありますが、覚醒時の通常の認知や記憶とも結びついています。

解離された感情や衝動、情動、欲動などが再び覚醒時の意識の中に侵入し、自己を支配してしまい、抗いようもなく対象化不可能になってしまいます。もちろん普通は全くというわけではないですが、極端な場合は「心神喪失」ということになってしまいます。
先に述べたような、未分化な段階の精神構造への退行ですが、それも全面的に退行するわけではありません。

発達過程において幼児は愛情を伴った承認が得られなければ、感情・感覚、認知・認識や思考も、自分のもの、確かなものとして身につけることはできません。一旦、確立したかのように見える自我や対象関係も、極めてあやふやで脆いものでしかなく、あっけなく崩れてしまいます。

先に「些細なことでもあっけなく精神が崩壊してしまう」と書きましたが、それは一般的に言えば、もしくは傍から見ればということであって、当人にとっては生死を分ける崖っぷちから突き落とされるような、文字通り死活問題となってしまいます。ぎりぎりまで何とか持ちこたえてもついに、激しい恐怖や不安に突き落とされてしまうような体験です。

発症の誘因の例を挙げるなら、例えばお店のバイトを始めたが、「いらっしゃいませ」が上手く言えないなど。普通の学生なら難なくできるか、多少の努力は要しても何とか身に着けるようなことがどうしてもできない。友達は皆できるようなアルバイトもつとまらない。

まだ若いのに…と思うかもしれませんが、土台がないとその先も作れないのです。
人と接するのが苦手なら、手先を使う仕事なら良いではないかと思われるかもしれません。しかし、そういうことが得意な人でも、発症するような困難な状況になると、あたかも悪霊か何かが取り憑いたかのように、外部からそれこそ電波か何かで邪魔されているように、全てが上手くいかなくなり、得意だったこともできなくなってしまいます。

それは最後の審判、死刑宣告であり、人間社会からの抹殺、世界からの排除であり、二度と昇らぬ日が沈むような体験にもなります。生きるか死ぬか、実際に自殺する者もいます。生きるとすれば、然らば精神の自我の崩壊を招いてしまう。

ある典型的な統合失調症の人は、それならばむしろ落っこちてしまえ!と飛び降りてしまう、崖から落ちても、無傷ではなく精神は崩壊しても、それで終わりではない、と話していました。
私自身はこのギリギリの状態をかなりの期間、何とか耐えて精神の崩壊を防いできたという感じです。最も酷かったのは大学に入った歳でした。

私はこうした体験もあって、独力で統合失調症≪精神分裂病≫(の少なくともその殆ど)が脳の病気では無く、PTSD・心的外傷後ストレス障害であることを「発見」していました。中学、高校の時はおぼろげではあったが大学の頃はかなり明確にはなっていた。もちろん上に述べたことが全てでありませんが、今もうまく言えないところが大きいです。

独力とは言っても全く独自ではなく、もちろんずっと昔からそういうことを発見していた人はいて、それが一般の精神科医には理解できずごく少数派でした。

幻覚・妄想はそれ自体異常な脳の働きで、薬か何かで何とかしなくてはいけないと思ってしまうかもしれませんが、誤解を恐れずに言えばむしろ消してはならず、異常な働きではなく必要なことです。無理に「現実検討」させても認知が修正できるわけではなく、統合にはなりません。脳の病気ではなくとも、無意識の影響で脳の働きも支配されているので、訂正も不可能です。

医学的なことに詳しい人なら、原始反射を考えるとわかりやすいかも知れません。原始反射は幼児期の数ヶ月頃の一定の発達段階において、一定の種類の原始反射が優位で、随意的な運動の基礎にもなるものです。それに支配されることは随意的な運動の妨げにもなりますが、その段階を経て、上位中枢に統合され運動を獲得していきます。

一見、原始反射は消失したようですが、決して無くなったのではなく、上位の中枢に「統合」されるのです。反射に支配されては上手く身体を動かせませんが、むしろ積極的に引き出して利用したりもするものです。

例えば非対称性緊張性頸反射ATNRのパターンはボールを投げたり、弓を引く時など顕著ですが、原始反射に支配されず、積極的に引き出し利用する随意的な運動でもあります。

脳性麻痺などの脳の障害がある人は、こうした原始反射にいつまでも支配され、そのために一見奇妙な動きを示し、訓練によりある程度克服可能ですが、大人になってからも後々まで影響は残ります。反射に支配されないことは必要ですが、全く反射が無くなれば運動そのものも成立しなくなってしまいます。

同様に幻覚や妄想に支配されては、正常な認知は妨げられますが、これらを消すことが現実との適切な関わりを取り戻す治療になるわけではありません。むしろ、反射が運動の成分として必要なのと同様、思考や認知などの要素・成分として必要なものです。

私はむしろ「幻覚誘導」を行い、良い幻覚を見せていました。小さい頃見た野山の風景やお花など、実際に見たままを見せ、子供の頃の生き生きとした感覚、現実との関わりも取り戻し、精神の統合を取り戻すのですが、それについては「治療法」に書いています。

現実との生き生きとした関わりを取り戻し、精神が統合されると幻覚や妄想も気にならなくなり、なくなるというよりも忘れてしまうようです。そもそも記憶が成立しない頃の精神の働きですから。