「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」 魯迅

「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」 魯迅

それなりに広まっている言葉ですが、これはどういう意味でしょうか?

私は精神病が酷くて本もほとんど読めませんでしたが、この言葉は高校時代から知っていました。友人の家の板書にこの言葉が書かれており、部屋に掲げられていたからです。
「絶望ノ虚妄ナルハ希望ト相同ジナリ」と書いてあった気もしますが、漢詩だったかもしれません。

友人の父親は文学者で、フランス文学やイタリア文学の翻訳なども多数手がけていました。二十年くらい前にベストセラーになった「他人をほめる人、けなす人」という本も翻訳しています。
有名な書家だったか彫刻家の人に彫ってもらったそうです。

これは「絶望が虚妄であるのは、まさに希望であることと同じだ」と言う意味なのか「絶望が虚妄であるのは、まさに希望もまた虚妄であることと同じだ」のどちらだろうか?と長年疑問に思っていました。

前者であれば、「絶望なんて虚妄なんだから、絶望するなよ。希望は(虚妄ではないから)希望を持ちなよ」、とか、「絶望が虚妄だということを知れば希望が持てる」、などと言ったことも考えられます。

後者と考えると、「希望を持つことはイイことかも知れないけど、虚妄なんだから浮かれてはいけない、冷静になるべきだ」、「人間の想念なんて虚妄にすぎない、思いや感情にとらわれるものではない」、といったことなどが考えられます。

しかし、深く深刻な精神疾患に陥った人は、「希望なんて虚妄だ」とは考えられても、「絶望なんて虚妄だ」とはとうてい考えられず、希望は持てないのではないでしょうか。

「虚妄」こそがまさに実体というべきでしょうか?
どちらかと言えば、私はそのまさに「虚妄」を対象にしているわけです。

「虚妄」なんだから無いじゃないか、と考えては何の進歩や解決にもならず、少なくとも「虚妄」には根拠があり対処も可能と考えなければ、私の場合は仕事にもなりません。実際に対処可能で成果も大いに出せています。

要するに「無意識」は「ある」ということにも通じるかもしれません。
無意識のことは子供の頃から何となく無意識は「ある」とは思っていましたが、中学のとき(たぶん)保健体育の教科書に防衛機制のことが書いてあるのを見たり、中学3年の時にフロイトの「精神分析入門」を読んで確信しました。頭では理解していたとも言えます。

とは言え、実際に無意識のことがわかったのは、大学4年の時に元師匠となる人に、このセルフ・セラピーの基になるセラピーを受けた時です。
知識はあってもその時の体験は、眼からウロコなんてもんじゃなかったです。このブログに書いてあることの殆どは、その時に得たことかもしれません。

精神分析に詳しい人でも、もしかすると精神分析学者でも、無意識のことは実際にはわかっていないかもしれません。

私には物質が実体であるよりも、形而上的なこと、メタ・フィジカルなこと、もしくは精神こそが実体であるように思えてならないのです。「実体」という言葉が適切かどうかはわかりませんが。

最近マルクス・ガブリエルが流行っており、物質主義、神経中心主義を批判しています。俺は昔からこれが言いたかったんだ!なんて思いながら読んでいますけど、「私は『脳』ではない」は面白いです。

予知能力はあるのか?スーパー・ボランティアの尾畠春夫さんと預知能力

2018年8月、山口県の周防大島で2歳の藤本理稀ちゃんという男の子が行方不明となり、3日がたっても発見されず、絶望視されだした頃、スーパー・ボランティアの尾畠春夫さんに発見されたことがニュースになった。

それから2年、もう皆忘れているかもしれないけど、そのことについて書いてみたい。私はけっこうしつこく、皆が忘れた頃にブログを書くのだ。彼は「私なんて一過性のもの。日本人は熱しやすく冷めやすい。自分のことなどすぐ忘れる。」とも言っているけど私はけっこうしつこいのだ。
ちなみにユーザーの使用頻度によって、どんどん学習するはずのGOOGLE日本語入力では「尾畠」は出てこない。尾畑では検索できないので、実際に忘却が進行しているようだ。「理稀」も出てこないけど、これは仕方ないか。

同じ頃、豊田真由子のパワハラが問題になり、その前年の2017年の夏には松居一代のブログとYOU TUBE動画が話題になったが、そのことについてもいずれ書くつもり。いずれもその時に書こうと思いつつ、書いていなかったし精神医学的には重要なテーマだが、そのような観点で書いた記事は全く見たことがないので。精神科医には理解が難しいのだと思う。

尾畠さんは、行方不明になった子供の家族に対ても「私が抱きしめて直にお渡しします」と約束し、探し始めてからまっすぐに山の方に登り、3日100人掛かりでも発見されなかった男の子を30分もかからず発見して戻ってきた。

いてもたってもおられず、捜索開始より1時間ほど前に独りで捜索を始め、マスコミにも「早く出たからって、法律に反するわけではないからな」「昨夜寝ていたら、今日は「理稀ちゃんに会えそうな気がしたから」などと答えており、少なくともこのことに関しては予知能力のようなものが働いていたと言えるだろう。もちろん長年の経験の裏打ちもあってのことだが。

奇跡的とも言われ賞賛されたが、でもこのことはあまり話題にならなかった。
皆、予知能力があったら良いと思うでしょ?でも否定しているのかな?

予知能力があり(ま、一応ね)、その開発方法を知っている俺からすれば、これは不思議なことでも何でもなく、予知能力はあるか?と聞かれれば、一応あるとしか言いようがない。

ではどうしたら開発できたのか?ということに先に応えておきましょう。このセルセラをやったからです。実際に患者さんには、予知能力みたいなのが開発されたとか言う人もけっこう多い。
そうでなくても、運が良くなったとか。小田急線の厚木駅で待っていると急行が通り過ぎてしまい、その後に来る普通に乗っても次の海老名駅では追いつかず乗れないので、いつも悔しい思いをしていたけど、この治療で良くなったら不思議とタイミングよく電車が来るようになった、「先生が電車を操作してるのか?と思ったりして。まさかね」とか。
そういうことを言う人はよくいるけど、これは私自身が体験したことでもある。
「無意識は何でも知っている?」ホントか?

このセルセラはそんなに時間をかけなくても、短期で随分効果がありますが、やればやっただけ良いようで、人間上には上があるみたいです。少なくとも限界はなさそう。
というわけで、調子が良い時にかなり時間をかけてやったことがある。
そうすると、なぜか予知能力も亢進するみたいなのだ。
そういう体験をしたことは何度もあるけど、よく覚えているのは。

リハビリの専門学生時代、寮にいたのだが、ある日の日曜日、リハビリの学校同士(といってもその頃は関東全域でも4~5校しか無い)でサッカーの大会があるということで、出場する人と応援する女性でマイクロバスを借りて行くことになった。
その日の朝、わかったのだけど「必ず事故になる」
バスに乗り込んでいく友人たちを見ながら、止めようかどうかずいぶん迷ったのだが、そんな根拠もないことで止めるわけにもいかないし、皆も言うことは聞かないだろう。しかし、「でも、たぶんそんなことは無いだろう」という考えさえ浮かんでこないのだ。
結局、冷静に考えたら、大したことはないだろうと思えたので何も言わず、気にしないことにした。

果たして事故は起こった。といっても、追突されただけで、運転者はスターティングメンバーから外れて事故に対処し、皆は電車やバスを使って試合は問題なく行われたと聞く。
その日、私は暇だったのだが、今日は必ず警察に捕まるということが浮かんできた。
しかし、用事を思い出したのだ。何だったか憶えていないので、たいしたことではないけど、今日やっておかなくては後でちょっとマズい、というようなことだったと思う。

で、自分の予知を試すような気も少しあって、単車でゆっくり慎重にでかけた。これで捕まるわけないよな、とは少し思った。私は元々慎重に走るし、無事故無違反であった。用事を済ませて、その予知のことはすっかり忘れてしまったと思う。

果たして、通りを曲がった所に警察がいて呼び止められた。そこは観光地なので「日曜休日に限りバスとタクシー以外は右折禁止」という変な交差点、当時はまだ土曜日は休日ではない。
そこはたまにしか通らないし、何となく規制があることは知っていたのだが、日曜日に通ることはなく、曲がって行くタクシーの後にくっついてそのまま曲がってしまったのだ。
警察もそこにたまたまいたと感じで、その交差点で取り締まっていたのではなさそうだったけど、見過ごすわけにはいかない、アンタ運が悪いねという感じだった。

当時、付き合ってはいないが好きな女性がいて、バンドなども一緒にやっておりけっこう仲は良かった。その人は別な先輩と付き合っていたので断念したのだが…
その時にその女性がある病気になることがわかった。それほど珍しくもなくありふれた病気でもないが、その病名までわかった。その時はそんな病気自体、知っていたわけでもないのに。時期はほぼ1年後だが、それもわかった。
もちろんそのことは誰にも言わない。言っても防げるわけでも対処できるわけでもないし。

果たして結局、その女性はその病気になり手術したり、結局留年したが卒業はできなかった。今でも元気でいるはずだけど。
そういうことは何度もあった。

昔、ある知人が競馬に凝っていて、と言っても馬券は殆ど買わないのだが、その人が言うには「全く素人でも3年も研究すれば、かなりの確率で当てることは難しくない。その予測どおりに買えば儲かるはずだけど、買っても当たらない。純粋に当てるだけなら難しくないけど、儲けようとしたらその時点でダメ」などと言っており、なるほどそういうもんだな、と思ったことがある。
競輪・競馬の予想屋が成り立つのもそういうことだろう。

かく言う私もパチンコでかなりの予測ができるようになったが、そうなった頃はもう全くやる気がしなくなり、35年前に大勝ちしてから1度もやっていない。その後は負けるとしか思えないし。

何となく思うのだけど、インテリや知的な人はギャンブルには向かない。動物的な勘が鋭くなくてはダメだと思う。私の知っている人で、大学教授でありながらパチンコが好きで負けてばかりいるのにやめられない人がいる。東京の資産家の師弟で不動産関係など、かなり裕福で何もしなくても収入も入ってくるようだが。

どうも言えることは、純粋でなければダメということである。尾畠さんは「もし見つからなかったらどうしよう」とか、「あんなこと言って、見つからなかったら両親に申し訳ない」などといった「邪念」さえ湧いてこないほど、純粋に見つけたい、会いたい、会えるはずと思っていたに違いない。
それは私の経験からも言える。大した成果を得ることができないのは私のレベルが低いからだろう。

しかし予知能力は役に立つのか?確かに尾畠さんの場合は役に立ったと言える。尾畠さんにとってではなく、行方不明となった男の子と家族にとって、である。
そこで慢心したら尾畠さん自身が危ない。たぶんね。
しかし彼は謙虚であり、己を知っているようだ。
「正直言えば、私は私が怖いんです。放っておくと悪いことをするのではないかという恐怖です。毎日自分を振り返っては、自分自身が悪いことをしたととにかく叱りつけている。これからも私は常にボランティアをして、感謝を続けるしかないんです」とも言っているので、とりあえず大丈夫だ。

それ以来、私はむしろ予知はしないようにした。
予知は役に立たないということでもある。例えば明日、地震が起こるとわかったとして何になるだろうか?今はネットがあるから発信はできるけど、広まることはない。
自分は助かるかもしれないが、他の人に言っても相手にもされないだろうし説得力もない。後で、あの人が言ってた、凄い!なんて言われてもたまたまカンが当たったというだけのことになる。

でも、どうしても邪念が入る。不安や恐怖もあるだろうし、助かりたい、人を救いたいなんてそれ自体が邪念でもある。
地震学者でも占い師でもない人が予知した所で役には立たないし、そうした「専門家」こそ邪念も入りやすく、地震予知などは難しいのだと思う。専門家が言ってもたぶん、正常化バイアスが働いてあまり本気にされないだろうし、当たってもなぜ広めなかっかのか?と言ったことになってしまう。
そのため当たらない、ということにもなるのだが。

予知は敢えてしないことにしたけど、洞察力は随分ついたと思う。精神病だったからたぶん普通の人よりかなりダメだったかのが、追い越すくらいには。
その方が良さそうである。予知にはそれに伴うリスクもある。

「無意識は何でも知っている」のかはわからないが、無意識を意識化すれば、洞察力も高まり、かなりのことは知ることができるようだ。

精神的に健康な人は概して運が良い。
無意識と意識にあまり矛盾がなく、普段の意識の中に予知能力のようなものが洞察力にも含まれていると思う。
不健康な人は、恐怖や不安、強迫観念、人によっては欲得がそうした能力を捻じ曲げ、阻害しているようである。
欲得もホントにそれを望んでいれば、一応実現するのだが、それに相応したマイナスもあり落とし穴に嵌る。

というわけで、このセルセラは精神の健康に役立つものでもありますが、洞察力の向上にも、無意識の意識化にも役立ちますが、純粋で素直になれる方法でもあります。純粋に活用されたし。

私が提唱するこのセルセラは神経の状態を改善し、働きを良くすることでもあるが、予知は預知でもある。預言、預知は神の意思を預かり知るということでもある。神経とは髪に通じる経絡という意味か?よく言ったもんだ。やはり思い上がっちゃいけない。尾畠さんを見習って自戒しなければ。

セルフ・セラピー研究所

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催眠を使った自分でできる治療法「セルフセラピー・マニュアル」の公開

精神疾患に対する長年のセラピーの経験を元に、自分でできる治療法、セルフ・セラピー(セルセラ®)マニュアル(暫定版)を販売します。
精神疾患の方ばかりではなく、多くの人がこの度の新型コロナ・ウィルスの影響による不安やストレスを高めていると思います。2020年7月公開を目標に執筆、準備してきましたが、暫定版を先行公開することにしました。購入、実施して頂ければ幸いです。

【当所の提唱するセルフ・セラピーについて】
自分の自分による自分のための精神疾患の治療法を提唱しています。
マニュアルを読んで頂ければ、自分で自己治療ができるようになっています。

・難しいことや無理な方法ではなく、簡単、時間や労力もさほどかかりません。やる気や根気が大事です。
・真剣に自己治療法を行えば、個人差はありますが1回でもかなりの効果は上げられます。
・薬物や、精神科医や臨床心理士、心理カウンセラー、あるいは向精神薬に依存しては絶対に良くなりません。
・向精神薬は一時的な効果はあっても、改善しないばかりか副作用、依存性や危険性が非常に高いです。
・他力依存では自分の症状は良くなりません。自分の精神は自分で改善するしかないのです。
・しかし自己治療をしようにも、その方法を知っている人はいないと思います。そのために自分でできる確かな治療法、セルフ・セラピーのマニュアルを提供しています。
個人に対する施療指導、相談にも応じています。

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オーラが見える!? オーラについて

オーラが見える!? オーラについて
 やっぱりオカルトとは思われたくないし、その前にオカルトって何でしょう?ってことにもなるんだけど。
 とりあえずウィキペデアから引用。
 オーラとは、生体が発散するとされる霊的な放射体、エネルギーを意味する。転じて、ある人物や物体が発する独得な、または霊的な雰囲気や、なんとなく感じる力、威圧感なども指す[1]。なおオーラという言葉は、「微風」「朝のさわやかな空気」を意味する[2]ギリシア語 α?ρα(アウラー、「風」「香気」「輝き」などを意味するラテン語の aura(アウラ)に由来する。

 というわけで、かなりいい加減というか曖昧に使われている言葉であるが、そのようなものとして認められるという人は多いだろうが、明確に認識している人は殆どいないだろう。後述するが「見える」という人も嘘をついているわけではないが、まやかしインチキっぽくなってしまうのはそれなりの理由がある。
 私はきちんと定義できない言葉を使うのは嫌いなので(もちろん誰にでも誤解なく通じる日常語は別)ここでも明確にしたいと思う。自分がわかってもいないことを書いたり話したりする気はないです。
 そうしたことは精神科医の得意分野ですが、私は精神科医ではありません。
「インディアン嘘つかない」←子供の頃、好きだっだ言葉。
 とりあえず私の定義では神経の発光現象である。ただし、神経そのものの発光なのか体の細胞が発光するのかは良くわからない。たぶん両方だろう。
 電球の明かりなどとはもちろん違って、光のスペクトラムには含まれておらず、科学的には同定されていない。したがって、科学的にはまだ証明されていないものであるが、伝え聞くところによると東大の某脳科学研究者が実験で見た、研究しているという話もある。
 それは期待しても良いのかもしれないけど、とりあえず特に関心はない。おそらく脳科学が精神疾患の治療に役立つことは、百年やそこらではないと思う。むしろ阻害になることが懸念される。
 オーラは輝き、光でもあるけど、引用にあるようにエネルギーでもあるかもしれない。これは発していることでもあるが、(宇宙から?)吸い込んでいるものでもあるように思える。これはそう考えるといろいろなことが説明できるのだが、エネルギーそのものが直接見えるわけでもないし、重力のように明確に示せるものではなく、今のところ私自身はきちんと同定しているわけではない。
とりあえずこう考えるとわかりやすいかもしれない。
生き生きとして健康的で意欲的に活動している人は「あの人は輝いている」と言われるけど、実際に輝いているように見える。
明るい人、暗い人というけど、やはり陽気で朗らかでにこやかでいる人は明るく見えるし、陰鬱で気分がふさぎ込んでいる人は暗くくすんだようにみえる。
昨今のアイドルグループなんか、そこらのおねぇちゃんを集めたようにしか見えなかったりするが、人気が出てきて皆から注目されるようになると精彩が出てきて、歌も踊りも急に上達したりする。
そうなってくるとスターというように輝いているように見えるし、街で人混みの中にいても、特別な存在、雲の上の人のように見えたりする。
グループを離れると人気が低下し往々にしてまた戻ってしまう…、アイドルに限らずタレント芸能人や政治家なんかもそういう人が多いけど。
 おそらく後光がさしているというのもそういうことで、昔の仏像やらキリスト教の聖画なんかも、見えたままを書いたり表しているのだと思う。
 そう言えば、昔ある女性に「すごい!、頭の上に天使のような輪っかが見える!」と言われたこともあるし、数多くの教祖様やら霊能力者とき会っているというオバサンに「何人もすごいオーラが出ている人を見たことがあるけど、貴方のような人は初めて見た。そういう人だからセラピーができるんですね。」なんて言われたこともある。
 しかし、生後数か月の赤ちゃんなんかにはオーラが見えているとしか思えない。先日も親戚が集まった時に、兄の孫も来ていたのだが、いつもこっちばかり見つめてくる。
布団に寝ころんでいても首を捩じって見つめてくるし、兄嫁が抱き上げても兄嫁とは顔を合わせようとせず、やはり首を捩じってこっちを見つめてくる。兄嫁(祖母)は元保母さんで子供の扱いも上手いのだが。
「なんでそっちばかり見るのかしら?」「俺のオーラが見えるからだよ」
 電車の中でも赤ちゃんは周りの家族よりもこっちの方を見つめてくるし、見つめ返しただけで泣き止む。
 こっちも健康的で気分よく、気力充実していないとダメだけど。
そうした感覚を残している人は大人になってからもオーラがハッキリ見えるのだろう。私の観察では3歳までには殆どの子がそれを忘れており、したがって体験を共有することもないが、たまにはオーラについて話す子供もいる。
 かなりの人が同様なことを体験していると思うけど…
 昔、学生の頃、昼飯を食べそびれて空腹のまま夜酒を飲んだが、金がないのでツマミも殆ど取らず、睡眠不足もあって体調は良くなかったが。
帰りの電車で気分が悪くなってきて、貧血のような感じで目の前が真っ暗。駅に着いたのはわかったので、とりあえず降りて休もうとしたらドアが開いたとたんに、ぶっ倒れてしまい…。
 大丈夫か?と両脇から抱えて起こしてくれた人がいたが、大丈夫ではないけど何とか「大丈夫です、すみません」と言ってホームに降り、ベンチで休もうとしたのだが。
 目の前は真っ暗なままで見えないのだが、人影だけは人物型に光って見えのるで人にはぶつからない。何とか手探りでベンチにたどり着いて休んだら、別に病気でもないし10分やそこらで落ち着いたけど。
 あの人型に光っているのがオーラかもしれないと友達に話したら(その頃は日常的には見えなかった)、友人(複数)は俺もそういうことがあった、やっばりそうかなんて納得していたけど。
 これも昔、若いころ自転車店で働いていた時のことだが…
 人の顔色を見て敏感にいろいろとわかる同僚がいた。別な同僚を朝出勤したときちらっと見ただけで、「彼は何かあったな。彼女にフラれたか」と言ったら、そのとおり昼休みにその話をしてきたり。客のことも見ただけで洞察が鋭い。
 こっちは鈍くて空気読めない奴だったのでそれが不思議で、多くの人はそう思わないだろうけど、敏感なのも鈍感なのも理由があるはずで、敏感になればいいと思った。
 「なんでわかるんだ」「まぁ、顔色なかな…、表情とか雰囲気もあるけど」「俺は色彩感覚は良いはずだけど」「顔色って言うけど色でもないんだよな」
こっちもだんだんわかるようにはなってきた。
 今の治療を始めて最初のころだから、20年以上も前のこと、その頃はまだハッキリとはオーラは見えない。
 ものすごく厚化粧の女性が来た。これじゃ、顔色を見ても良くなってきたことが確認できないな、と思ったのだが…、5回の治療を進めるにつれて一回ごとに、だんだんとハッキリ5段階で顔色が変化してくるのがわかる。やはり顔色は色だけではない。
 「お陰様ですっかり良くなって」
 最後にはほとんど化粧をしないできた。
 やはり自分の顔色を気にして、そうしないと外出するのに抵抗があり、ついつい塗りたくってしまうのであろう。化粧では顔色は隠せない。塗装も下処理や下塗りが大事だけど。
 たぶん自分の顔色の変化にはあまり気づいてはいないのだろうけど、行為・行動の面でも良くなるともちろん違っている。
そうしたこともあって私もだんだんハッキリわかるというか見えるようにはなってきた。
 要はオーラとはそのような人の輝き、光であり、それが肉眼でも見える、ということである。
 やり方・見方というか訓練の仕方については、治療を受けに来た人には教えますが、治療終了近くなってからです。やはり健康にならなくては輝いてこないし、感覚も良くならないと見えないので。
 「ワ~、すごいはっきり見える」という人も多いし、すぐにというわけにはいかなくとも、大抵の人は見えるようになると思う。
 治療ではこっちもオーラを見て神経の状態が良くなっているのを確認している。だから、一回目から効果があるのと言えるのだけど。前半であまり変化がないと、後半は時間をかけてやったり。もちろん当人が分かるかどうかは別問題である。
 ホントにキレイに輝いているオーラの出ている人は少ないです。自分の所に来た患者以外ではほとんど見ることはないです。(もちろん良くなってからです)
病気がすぐに治って健康になるというのはいろいろな面があり、そう簡単ではないですが、神経の状態自体は一般の人(並みの人)よりはずっと良くなるので。
 でもオーラの色がどうのという気はないし、見ようとも思わない。要するに輝きであって、そこにはやはり様々なスペクトラムがあり色もあるのだろうけど、色がハッキリ見えるわけではないし、むしろ見ないほうが良いと思っている。
 今まで経験した中では、政治家とかヤクザの親分みたいな人とか、輝きは強いんだけど、嫌~な感じのオーラが出ているのを見たことがある。色があるといえばあるんだけど、例えようもないような嫌な感じ。
 テレビに出てくるオーラが見えるという人たちも、それぞれが特定人物に対して同じ色が見えているのではなさそうだし、むしろハッキリわかる人は色のことは言わないようだ。
 これは霊視なんかにも言えることだが、最初は見えても段々と勝手に自分の主観で見てしまうのである。見えないものが見えるというのではないが、客観性を失って、脳内の視覚であって、実体が伴わなくても見えてしまう。自分の脳内プリズムを通して見てしまい、そのプリズムがどんなものかわからず、自覚もしていないような…。
 大事なことは目に見えず、些細なことを針小棒大に見てしまったり。何にでも言えることかもしれないが。
 霊能力がある、霊視、除霊をやる人もやはり同様な場合が多く、最初は嘘ではないのだろうけど、だんだんおかしくなってる場合が殆どである。特に金や名声などの欲が絡むとダメですね。リスクもあるので高額なお金をとりたくもなるのだろうけど。人間、特別な能力があっても謙虚にならなくしてはいけません。
 私は特別な能力があるわけではなく、精神疾患を少なくとも基本的には理解し(精神科医は誤解し)、治療法をもっているだけで、そうした人は精神科や臨床心理士や心理カウンセラーや自称セラピストなんかには、ほぼ皆無というだけのことです。
 したがって、オーラの色がどうのというつもりはないし、そうした見方をする気もありません。除霊・浄霊も狭義の憑依精神病の人にしかやりません。一般の精神疾患の人にはやってもあまり意味はないです。その時は一応すっきりしたりするけど。
 もっとも人間健康的になると、顔色も表情も目つきも皮膚の状態や姿勢や声なんかも違ってくるので、そうしたことからいろいろなこともわかるし、特にオーラが見えなくても治療はできます。実際に前述のように私は中々見えなかった方です。
 オーラなんか見えなくても、感受性や洞察力・観察力、それが伴った理解力を身に着け、向上させる必要があると思います。
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