私の知ってる精神科医は優しく良心的な人ばかりです

【精神医療は壮大なミルグラムの実験(アイヒマン実験)か?】

私のブログを読む人の中には、「私の知っている精神科医にはアンタのブログに書かれているような悪い人はいない」「私の知ってる精神科医は良い人ばかりだ。優しいし話もよく聞いてくれるし、薬の処方だって慎重でいきなり多剤大量処方をするわけではない」そのように反発を感じる人も多いと思う。

普通の患者が何人かの精神科医を知ってる、ということ自体、良い精神科医がいないということだと思うけどね。皆が良い精神科医なら1人かせいぜい2人に罹れば良い。あちこち転々としなければね。

もちろん、私はそういう精神科医も含めて批判しているのですが。私自身精神病が酷くなってから半世紀にもなるし、この業界も長いし、精神科病院にも国立大学の医学部にもいたことがあるので、少なからぬ精神科医は知っていますけど。

そういう人の話をよく聞いてみると、その人が良い精神科医だと思っているだけで、実際にはかなり悪質な精神科医だったりするわけですけど。
でも目先のことだけしか考えなければ、確かに優しくて良い精神科医なのかもしれない。

私の同級生も3年ほど前に、慢性薬物中毒、薬物依存症で突然死した。友人たちの同級生も医療従事者なので「薬は良くないから止めたほうが良い」と止めたようだが、もちろん本人は抵抗を示し、言うことを聞かなかった。
「今の主治医は優しくて話をよく聞いてくれるし、とても良い先生」

実際、個々の精神科医はけっこう良い人だったりするわけです。マッド・サイエンティストみたいな人もいるけど多くはない。

私も直接間接何人もの精神科医を知っており、殆ど歳上で亡くなった人も多いですが、皆さん悪い人ではないし人当たりも良く、精神科医としてはよほどマシなほうです。
ホントに悪質なヤツも知ってるけど、こっちも向こうも避けるし。

いつも悩ましく思うのは「話はよく聞いてくれるし、薬の処方に関しても慎重」な医者の方が結果的にはかえって悪質ということになるのかも?
見るからに悪質で不適な悪質精神科医なら患者も避けるし、精神医療の評価も下がり、批判もされ見向きもされないだろうけど。
外面だけは良い精神科医が増えましたね。

反精神医療派、精神医療批判派にも同様のことが言える。
そうした人のおかげで、近年は向精神薬の処方に規制がかかり、10年以上前のように何十種類もの薬を服用している人は減り、今は多くても10種類くらいの人が殆どだ。
悪質精神医療の悪質さは弱まったが、延命させ問題を遅延させているだけかもしれない。

今の精神医療は壮大な「ミルグラムの実験」みたいなものだと思う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%AE%9F%E9%A8%93

御存知の通り、科学的な心理実験と称して、検者を募り、電気ショックを与えるように指示する実験だが。
もちろん電気ショックは精神科病院でも行われているが、脳に与えるので苦痛は少なくとも危険性はもっと高い。

「アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか。それとも妻との結婚記念日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか」という疑問が提起された。

ミルグラムの
実験は、アイヒマン裁判(1961年)の翌年に、上記の疑問を検証しようと実施されたため、「アイヒマン実験」とも言われた。

誰にそんな残虐なことを指示されているのか、求められているのか?と言えば科学者と言うか精神医療全体であり、精神医療を求め来る患者であり、その家族や学校の先生だったり、社会全体であったり、科学者、医者としての良心と倫理に基づく自分自身だったりするわけである。

むしろ「医学的権威」のもとに、良心や倫理観、現実認識は解離され隠蔽意識となり、奇妙でサディスティックな義務感でやっており、「発達障害」と称して子供を精神医療につなげる教師や親にも感応現象が起こっており、その同調者(共犯者)にもなっている。

ミルグラムの「科学的実験」を途中で拒否したのは宗教家だけだったといわれている。
要するに科学的権威とは別に従うべき宗教的権威があり、それに従ったのである。

精神科医は精神医学的権威に従っているだけで、奇妙な義務感として「精神医療」すなわち薬物療法や電気ショックや時期刺激をやっているだけだろう。
「善意の陰謀」と言われるように、殆どの場合、悪意があるわけではない。
自分たちが権威だと思っているおり、皆が皆同じだし、批判勢力もほぼ皆無。

俺が30年以上前、精神医療従事者だったの昭和の頃はそうでもなかったんだけどね。
「薬で治るわけはないし」「精神科医なんて所詮何もできない哀れなものだ」といった自虐的な人が多かった。
私のような者も受けいられる状況はあったし、若い頃から下へもおかぬという扱いを受けてきたのである。

それから後、精神医療技術が進歩したわけでもないし、精神科医が有能になったわけもちろんない。
学生の頃、2カ月ほど実習で行った病院は、民間病院ではあったが金儲け主義的ではなく割に良心的な病院であったが、当時患者にも職員にも嫌われていたマッド・サイエンティスチックな精神科医が院長になっており唖然とした。
乗っ取られたようなものだろう。

数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に輸送する責任者であったアドルフ・アイヒマンも、真摯な義務感で「職務」に励む一介の平凡で小心な公務員に過ぎなかった。
問題はそういう木っ端役人のような者が精神科医のほぼ全てであるということだろう。

私は大学1年の頃、ほぼ引きこもりとなり、精神的の塗炭の苦悩にまみれ、自室に閉じこもってのたうち回って過ごした。
大学2年になってようやく少しばかり立ち直ったのだが、そのきっかけは浪人していた友人たちも大学に入り、私と同じ大学に後を追うように入ったものも何人かいたからである。

そこで、わずかばかりの学問的意欲も取り戻し、ファシズムの研究をしようと思ったのである。友人の何人かもいくらかなりともそういった問題意識があった。
私にとって当初からファシズムとは経済や社会、政治や思想の問題であるより、無意識の社会病理、集団心理の問題であり元々は個人の病理性の問題である。

そんなことを勉強しても無駄だとも思ったが、後々の人生を考えると決して無駄ではなく、むしろまさにやるべきことであった。
そういうものです。若いうちにやったことは何事も無駄にはならない。むしろ必ず役に立ちます。
これは若い人にはぜひ言いたいことです。

結局、精神病のため本を読む根気や集中力も乏しく、たいした勉強はしないまま一応大学は卒業した。
しかし、卒業の年にこのセルフ・セラピーの基になるセラピーをとある民間療法家に受けて劇的に改善したので、何とか働けるようになり自転車店に就職した。以来40年、今日に至る。

当時読んだ本は以下のようなものです。
ノイマン「ビヒモス」、エリック・フロム「自由からの逃走」、ライヒ「ファシズムの大衆心理」、丸山真男「現代政治の思想と行動」、ハンナ・アーレント「全体主義の起源」、藤田省三「天皇制国家の支配原理」、ハーバーマス「公共性の構造転換」、戸坂 潤「日本イデオロギー論 —現代日本に於ける日本主義・ファシズム・自由主義・思想の批判」、神山茂夫「天皇制に関する理論的諸問題」

精神分析で言うところの無意識の「抵抗と防衛」と憑依・心霊現象

【精神分析で言うところの無意識の「抵抗と防衛」と憑依・心霊現象】

精神分析の言葉としての、「抵抗・防衛」については高校の倫理社会やもしかすると保健体育の教科書にも載っているし、大学の教養課程程度でも臨床心理などの科目を取っていれば勉強したはずで、知識としては基礎の基礎である。

もちろん精神科医も「抵抗・防衛」という言葉は知っているし、実際の理解が伴ってはおらず、精神分析に反感を持つ人が殆であるが、一応知識はあるはずである。

私は子供の頃から知識があったわけではないが、何となくそういう問題に気づいていた。
記憶はおぼろげだが、方しか中学2年の時に保険体育の教科書に書いてあり(他の本だったかかも知れない)、膝を叩いて「こんなすごいこと教えて良いのかっ!文部省はどうなっとる?学校教育も捨てたものではないか?」と思った。
その翌年の中学3年の時には、本屋で中公文庫のフロイトの「精神分析入門」を発見し食い入るようにむさぼり読んだのだが。もう半世紀近く前になる。

簡単に言えば、「抵抗」とは精神的問題を改善することや健康に近づくこと、良くなることをむしろ拒否する、自分にとって役立つ人を否定・非難するなどである。

「防衛」はコインの裏表みたいなもので「抵抗」と同様ではあるが、自分の良くないところ、病理性が苦悩をもたらしているのにそれを手放そうとはせず、むしろ頑なに守ろう、防衛しようとすることである。

多分に無意識にやっていることなので、それに気づく必要もあるが、それ以前に中学の頃の自分のように、いくらかなりとも自覚もあるはずなので、精神病理克服、精神の健康のためには、なかなか受け入れ難くとも洞察・理解し、克服すべき課題と考え実践する必要がある。

この「抵抗・防衛」の問題は私が提唱するセルフ・セラピーの最初にして最大の問題でもある。いくら良いこと尽くめの治療法であっても、いや、だからこそ、やっかいな問題になる。
治療法の問題ではなく、精神病理の問題であり、人間とはそういうものだとも言えるけど。

とりあえず、知識だけでも「抵抗・防衛」という概念が広まらなければ、このセルフ・セラピーの普及も難しいかもしれず、その意味で、公表するのは時期尚早かも?とも思っている。

ある患者さんのこと

40代前半だが高校入学して間もなく、ちょっとしたイジメというよりも、からかい程度のことはあったようだが、神経症的症状がひどくなり不登校になり、そのまま辞めて以来学校にも行かず仕事も殆どしていない

以来、ずっとほぼ引きこもりだが、病院とちょっとした買い物くらいは外出している。
バイトもごく短期はしたことがあるようたが続かず、高卒認定試験は難なく取れており、知的には低いという感じではない。

病院はもう20年以上も中断したことはあるが受診しており、薬では良くならない、行ってもしょうがないとは一応分かっている。不思議なことに長年薬を飲んでもけっこう大丈夫なことだ。
ときに思うことだけど人間ってけっこう頑丈だ。もちろん人によるし、肝機能の解毒作用が強いのかもしれない。

さすがに副作用や弊害はだんだん大きくなり本人も気づいてはいるようで、薬もだいぶ減らしてはいるが、変更した薬の副作用で太ったことを、本人は一番それを気にしており、今まで外に出ていた買い物にも行かなくなった。

よくあることだが、引きこもりの人に限らず、パニック障害や社会不安障害だとして外出できないという人も、病院だけは欠かさず行く人が多い。
普通はむしろ病院に行くのは気が重い、億劫だと思う人が多いはずで、いわゆる病院嫌いの人も少なくないけど。

行ってもしょうがいないことはわかりきっているのに。
これもまた、「抵抗・防衛」の表れである。一見、治療に積極的なようでむしろ逆になっている。良くならないことを望むために病院に行く。

その人の場合、自分は軽度の方だし、他の患者に気を使うのがバカバカしいのでデイケアは辞めたという。もっとバカバカしいのは、受診服薬のはずで、何にしても自分次第で利用の使用もあるかと思うけど。

なぜ「抵抗・防衛」があるのか?その要因と背景は?

親が子供を病気にするだけではなく、お前は私(親)の養育や接し方が悪いと思ってはいけない、病気のままでいなくてはいけない、良くなってはいけない、と言ったメッセージが強く含まれており、無意識にという無自覚の対応洗脳というか催眠になっている。

無自覚だからこそ対象化、吟味されず、罪悪感もなく、抑制や歯止めも聞かないため強力な影響力を持ちやすい。
それもまた親の「抵抗・防衛」という面があるが。

どんな人でも「抵抗・防衛」はあるが、そうした傾向が強い人ほど強い、もしくは大きく、それほどでもない人もいる。

その患者さんは当所に来て治療を受けるときに「私は自分が良くなりたくない、という気もあると思う」と言う。
通俗的とは言えメンタルヘルスに関するような本は随分読んでおり、それなりに知識はあるようだ。

「精神分析の用語では『抵抗・防衛』と言うけど、とりあえずそれが分かっているだけでも良い。そういう葛藤があるのも当然だが、あせらず徐々に克服していけば良い」などと言ったのだが…

実は意味が違っていることに気づいた。

彼女の父親はもう引退しているが、誰もが知っている有名企業の元重役で、退職金や年金も多くて裕福である。障害年金などもらわなくても金銭的には問題なく、仕事もしたくないし、このまま引きこもりでもそんなに苦痛でもなく、このままやっていければ良い、ということだった。

先生は有能で治療も良いことは認めるけど、私はそんなに良くなりたいわけではないし、治療に積極的に取組む気はない、という意味である。
要するに「抵抗・防衛」を克服すべき問題とは考えず、自分の病理や現状を正当化することを考えている。

彼女の弟も高給取りである。親が死んだら弟が面倒を見てくれると言うが、結婚して子供もできたらどうか?嫁さんだってそうそう納得しないのではないか?と思うのだが。

その人の父親は先程も書いたように、大した学歴もなかったのに某有名企業で出世した人だが…
働き盛りの頃に、さんざん部下にパワハラをやっており、それでむしろ「業績を上げた」人らしい。

今なら部下の多くに訴えられて裁判沙汰の嵐になるはずだが、それ以前に、辞めざるを得なくなるか自粛するだろうけど。
当時だから許された、というわけではないが、むしろ出世の踏み台にしたようだ。

当然、部下からは恨みをかう。そのパワハラの嵐がひどかった頃が、彼女が発症というより不登校・引きこもりになった時期と重なっているようだ。
その後も恨みつらみは当然続いたはずで、今でも続いてるかと思う。

話を聞いても、彼女には不登校になる特段の理由や要因があったわけではなく、幼児期からの親の養育、対応も問題ありだろうが、心理的虐待と言うほどでもなさそうで、そんなに重症になる要因になるトラウマがあったとは思えない。

精神疾患としては軽度でも、今となっては不登校になり、そのまま引きこもりになったので、社会生活の経験はあまりに乏しいため、精神病理的には軽症でも、「社会的重症化、障害者化」したような感じである。
本人もそんなに自分が重症とは思えないようであるが、引きこもりから抜け出せない理由も良くわかっておらず、あまり自覚がない。
病院と買い物は特に抵抗もなく行ってるわけだし。

親がパワハラなどやっていれば、子供が知らなくても、そのこと自体が無意識のトラウマになる。実は、薄々とは気づいているケースももちろん多い。

生霊を飛ばされた?心霊現象、憑依現象

精神病理学的にはこのような言葉を使うべきではないが、いわゆる「生霊を飛ばされ憑依した」というやつである。
本人がそう言ってたわけではなく、ハッキリした認識もないが、それを納得しているようでもある。
父親が罪深いことをしたので自分が犠牲になるのはやむを得ない、というように。

オカルト的なことは私も嫌いだが、そのようにしか考えられない現象は確かにある。

心霊現象とされるようなオカルト的なことも、それなりの理由や根拠、背景があり、それを無視し、荒唐無稽なことと考えてはむしろ精神疾患は理解できず対処もできない。
「脳の病気」という誤解、信仰もとけず無駄なこと有害なことをやり続けてしまう。

心霊現象といったことも精神分析学的には無意識の心理として考えるべきで、同一の現象を別な見方をしているとも言える。
もちろん精神分析の方がはるかに学問的広がりも発展性もあり、臨床的、実践的にも有用だからこそ、私も心霊療法家ではなく(広義の)精神分析療法家となったのだが。
もっともオカルト的なことは嫌いだし、霊だの何だのといったことも嫌いだし、というよりよくわからないので避けていた。

やはり人の恨みをかうようなことはすべきではない。自分には返ってこなくても、自分の愛する者に影響してしまう。

使ってはいけない言葉:ムンテラする(Mund Therapie 問診)

【使ってはいけない言葉:「ムンテラする」(Mund Therapie 問診)】

ムンテラとは一般的には「問診」のことであり、「病状説明」という意味で使われることも多いが、「問診」のほうが広い意味なのでそう考えたほうが良いだろう。

元はドイツ語でムント・テラピー(Mund Therapie)の略で、Mund「口」+Therapie「セラピー、治療」だから、口述による治療といった意味のはずなので、使ってはいけないどころか、本来は大いに使うべきであり、やるべきことである。実際に上手く出来るかが問題だが。

しかし、なぜ使ってはいけないと言わざるを得ないのか?

昔、30年近く前にリハビリ系の大学教師をしていた時のこと。
(その頃は医学部ではなく医療技術短期大学部)

臨床実習(インターン)から戻ってきた学生が症例発表をしている時、「ムンテラする」という言葉を得意げに使ったので、叱責したことがある。

使ってはいけないし、やってはいけないことだ、考えるのもいけないと。
俺は優しいし滅多に怒ったりなんかしないが。

専門用語をよく分かっていないのに得意げに使うのは、どの分野でも大学の1~2年位の初学者にはよくあることだ。専門用語は定義が必要であり、使うなら誰にでもわかりやすく説明できなくてはならない。

この場合は、専門用語ではなく隠語だが。飲み屋や寿司屋で客が「おあいそ」などというのは皮肉だ。ピストルのことを警察はハジキと言い、ヤクザはチャカと言うのはドラマの中だけ?
サ変名詞では無いのに名詞に「する」をくっつけることはよくあるし、「〇〇る」などと言うのは便利なので特に悪いとは思わないし、私も割に多用する。

私が叱責したのは、その学生は明らかに「上手く言いくるめる」「適当に言ってごまかす」「事実とは違うことで患者を納得させる」「厄介な患者を言葉で支配する」といった意味で使っており、それが良くないことだという認識もなく、むしろ得意げでさえあったからである。

大学ではドイツ語はやらないし、教師もドイツ語は知らないし使わない。

おそらく実習先の指導者が使うのを真似したのだろうけど、その指導者は他のリハビリ関係者の真似をしたのかも知れないが、元は医者の真似だろう。日本の医療の中で歪められて使われるようになったのだと思う。

もちろん言葉はわかる、伝えるために使うので、問診なら問診、病状説明なら説明と言えば良いわけだが、あえてドイツ語を使うのは「俺はドイツ語も知ってるんだぞ」と言う優越感もあるかもしれないが、ドイツ語だと患者にはわからないからである。
わかってしまえば意図が見透かされ、悪行がバレてしまうのでそれを隠すためだろう。

実際にムンテラと言う言葉を使うかはともかくとして、そうした正確には伝わらない、あるいは誤解に満ちた、悪意が隠されているような、歪んだ言葉を駆使して「診療」するのは精神科医の得意分野である。

医者になった当初はそうでもないのかもしれないが、精神科医になって何年もしないうちにたいていの精神科医は「ムンテラ」の達人になる。

専門的な臨床能力はちっともつかないどころか退化して、精神療法どころか診断能力は甚だしく未熟なまま、というより誤解だらけのまま強化してしまう。
医者のレベルの差でもあればまだ良いのだが、どの精神科医も同じようなもので、どこの精神科病院や心療内科に行ってもちっとも埒は明かない。

患者が話しても結局の所、うんざりさせられるだけで患者もやる気がなくなり、病気の人というよりも障害者化する。それ以前に、精神医療、ひいては精神療法が無駄どころか反治療的なもの、有害なものとなってしまう。

医者は患者を上手く納得させたと思っていても、実際には納得していないことが殆どである。精神病患者だけでなく、認知症患者であっても。
逆に事実に基づいてわかりやすく言えば、理解に乏しいように見える患者でも割に納得してくれる。

肝心の、病気の原因や要因やその背景など、実際に病気に関することで治療に必要な情報は精神科医にとっては不要なのだろう。
要は、薬の副作用だろうが、(常用量)離脱症状、も後遺症も何でも元々の患者の脳の病気のせいにしてしに、それに対してまた薬を処方するということをやっているだけだ。

結局の所、話しても無駄だ、医者には話は通じない、ということになり、ひどい「医療」をやっていても、患者から文句も出ず、訴えられるなどの問題にもならない。

患者もそれで納得してしまうか、そうでなければ、話をするのも諦めてしまう。
結局の所、疾病について、自分についての洞察・理解も進まないどころか、隠蔽しごまかしてしまう。

精神科の診療は決して希望を与えず、絶望もしくは諦念を与える。多くの場合それが患者にも自覚されず当たり前になってしまい、悪質精神医療の擁護者、支持者にさえなっている。
そういう人の声はでかくてまかり通ってしまうが、他の患者にも社会にも有害だ。

ハッキリ言って現状の精神科医の仕事は素人でも少し学習すればできるし、何なら簡単なマークシートを読み込めるコンピューターと薬の自販機でも十分間に合う。その方が良いかも知れない。
標準的な処方や、薬の組み合わせの禁忌などは正確にデータとして入力しておけば。

医者はちっとも話を聞いてくれない。5分どころか3分も診療しないと不満を持つ患者も多いが、時間がたっぷりあったとして、話を聞くとしても世間話程度にしかならない。
世間話ならまだマシだし有用性もあるかもしれないが。

知らない人が多いかと思うけど、精神科医はカウンセリングや心理療法の学習やトレーニングをしていないのが普通で、そのようなことをやってるつもりの人も多いが殆どの人は不得手でやる気もない。

一般科でも検査や画像などのデータや所見を元に、自分の知識と照らし合わせて診療するだけで、患者の話をよく聞いて理解しようとしない医者が多い、というか殆どかもしれない。

先日も喉の違和感があり、紹介状を書いてもらって耳鼻咽喉科に行ったが、鼻のこと(アレルギーはある)のでそのことばかりで、どういう違和感か?などとは聞きもしない。

結局、効きもしない薬を処方するのだが、前に服用したことがあるけど効果は無かったとは言えなかった。

内視鏡で見たのに喉のことには全く触れないので、こちらから聞くと「何でもない、キレイなものです」と言うだけ。

喉頭がんの心配などはなさそうで、とりあえず安心したが、それでは問題は解決せず、もしかして食道の方に何か問題があるかと、不安は解消せず気になってしまう。

基本縦割りだから、仮に食道などに問題があっても、その医者は何の関係もないことになる。

というわけで、ムンテラとは本来は大いに使うべき言葉だが、とりあえず禁句にした方が良さそうだ、という話です。

高齢者の交通事故とその対策、裁判、免許返納など

【高齢者の交通事故とその対策、裁判、免許返納など】

高齢者の交通事故が問題になっており、免許返納が進められています。
私は高齢者のセラピーをやっているわけではないし、認知症などの専門家でもないのですが、皆さんいろいろ言ってる割にあまり言ってないことを書こうと思います。
法律的なことには疎いし、多分に推測が入ることはお断りしなくはなりませんが。

2018年5月、飯塚幸三(87)が池袋の交差点で起こした事故

2018年5月、飯塚幸三が池袋の交差点で母子2人を轢き殺し、11人を負傷させた事件は、裁判が進められています。

当人は「アクセルを踏んだ憶えはない」と言い、弁護側は車に突発的な異常が起こったと無罪を主張し、被害者遺族だけでなく多くの人の反感をかっています。
実際には車のトラブルではなく、ブレーキを踏もうとしたつもりがアクセルを強く踏んでいるのは明らかで、このことが争点になることはないでしょう。

実際に悪質と見做さざるを得ない点はいくらでもあり、反感をかうのも当然かと思いますが。
事故を車のせい自己保身、自己正当化が過ぎる。被害者遺族のことを考えろ!今まで権威権力に頼り他の人の意見を受け入れなかったのだろう、非を認め反省する習慣がなかった、謙虚さを身に着けていない、傲慢なふてぇ奴だ、そんなに名誉が大事か、などなど。

高齢になるとそれまでの性格や生き方、自分あり方の問題が全面に出てきて、それに関して抑制する、配慮する、吟味するなどの能力は極めて低下するのは多くの人に共通しています。
そうでなくて、くよくよしすぎる、自分をだめだダメだと思い込み卑下しすぎる、などの人もいますが、両方とも共存します。

彼にもそうしたことが当てはまると思いますが、それだけの問題ではないように思います。
上級国民云々は別にして、というかそれについてはここでは述べません。

おそらくかなりの精神機能の低下はあったはずだと思います。
身体失認ではないにしても、自分の身体能力についても少なくともある程度は疾病否認もあり、パーキンソン病なので「車の運転は止めたほうが良い」と言ってた医師の意見も聞かなかったのでしょう。

反省能力がないと言っても、健忘症ではないにしても現実感そのものが希薄になっており、当然記憶に関する能力も低下し曖昧になっている。
逆に自分の能力を過信すると同時に、他に依存、自分以外のせいにするなどといった問題も既に大きいはずです。

おそらく知的にはそれほど衰えてはおらず、というよりも元々高い能力があったでしょうから、かなり落ちてもさほど問題は表面化せず、当然、認知症ということにもならないのでしょうけど、それ以外の能力、精神的な機能はずいぶん衰えているはずです。

「反省だけならサルでもできる」とは言いいますが、実際には子供や高齢者でなくとも、反省することは知的にも精神的にもかなり高度な能力が必要です。
飯塚幸三の場合、元々乏しい反省能力はとっくに損なわれていたのではないでしょうか?

罪悪感、倫理観、社会常識、現実感や記憶など、かなりの面で解離が進み、虚飾のプライドが全面に出てしまう。
言うことも二転三転し、物理的にありえないことを主張するなど、現実認識も欠落し、過去の技術者としての有能ささえも疑わしく感じられてしまう。
もしかして主観と地位や権力だけで生きてきたの??

傍から見れば随分と狡賢いということにもなりますが、こうしたことは、本人はもちろん家族や周囲の人にも気づかれにくい。

1審で有罪になったとしたら、2審では「心神喪失」とか「認知障害」「記憶障害」あるいは身体機能の障害のためなどと主張するのではないかという気がします。
その頃には実際に認知や記憶の能力も酷く衰えているはずで、まともな裁判にはなりそうもないかと思いますが。

前橋市で2018年1月、川端清勝(87)が起こした事故

前橋市で2018年1月、川端清勝被告(87)が自転車で登校中の女子高校生2人を車にはねて死傷した事故で、自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致死傷)の罪に問われ起訴されました。
これに関しては検察側が、事故原因は被告が急激な血圧低下で意識障害に陥ったことだとして起訴し、「意識障害」があったことが裁判の前提とされ、それに対して予見の可能性ということが問題になったわけです。
そして、既に1審では「過失責任はない」と無罪判決が出ています。

これに対して、当然のこと皆さん反感を感じてブーブー文句を言っており、家族なども世間を慮ったためか、異例なことになんと!弁護側も当人家族など被告側も「有罪」を主張し、二審では争われるようです。

ハッキリ言えば裁判が「意識障害」によって事故がおこったという起訴事実が事実とは異なり、間違った前提で裁判が行われたため、このような奇妙な判決にならざるを得なくなったものと思われます。

例えば…
・検察はAという人がBという人を殴り殺したとして起訴し、
・弁護側はそうではなく、「殴ろうとしたのを避けて転んで頭を打って死んだのだから、傷害致死ではなく無罪」だと主張
・当人のAは「俺は殴っていない」と言った場合、

裁判所は「BはAが来たとき、慌てて階段から転げ落ちて頭を打って死んだのだから無罪」という判決は出せないでしょう。
(それが事実だとして)誰も主張していなければ知りようもない。
裁判所には捜査権はないし、勝手に調べることもできないはず。

この事故の場合、状況からしてどう考えても「意識障害」によるものではありませんが…。
意識障害とされた根拠は、
・意識障害を引き起こす可能性の高い薬を飲んでいた
・本人もめまいを訴えたり、意識障害を起こしたことがある、
・本人は「事故のことは憶えてない」と話している、
といったことだけで、実際に事故を起こした時に意識障害を起こしていた根拠はないと思われます。

「事故のことは憶えてない」というのは多分ウソではなく、現実感も深刻さ明確な記憶もないのでしょう。従って反省のしようもない。

本人も「有罪」を主張するようですが、家族に言いくるめられたというよりも、(事故当時もその後も)記憶も現実感も希薄で、認知や思考能力も乏しいので同意したのではないでしょうか?

実際には「意識障害」ではなく、中枢性かメンタルかはともかくとして(おそらく両方)解離性の否認、健忘だと思われます。
それだと裁判はどうなったのか、二審はどうなるのかもわかりませんが。
「心神喪失」ではなく「心神耗弱」になるのかな?

検察にも弁護側にも、家族や周囲の人、かかりつけの医師等にも「解離」という概念がなかったものと思われます。
精神科医も解離という言葉はもちろん知っており一応知識もありますが、実際に理解し正確な概念を持っている人はむしろ少ないと思います。

実は30年ほど前ですが、この事故を起こした人は、私が住んでいたアパートのすぐ近くのご近所さんで、面識はありませんが何となく顔も見覚えがあり、事故を起こした場所も毎日通っていた所です。

2018年5月、茅ヶ崎市で高齢女性、斉藤久美子 (90)が交差点で4人を死傷させた事故

この事故も私の実家の近くで起こしたもので、事故があった場所は私もよく知っています。事故を起こした人が住んでおり、夫や息子がやっていた医院も、場所は知っていますが、評判も悪くなかったようです。

既に執行猶予付きの有罪判決が出され、当人も反省はしているようです。

本人が修理工場から国道1号線に出るとき、ちょうど車の流れが切れたので、「今だ!いそがなくては」と慌てて発進し、その時に正面、または右側に見えていたのは「青信号」で、本人が守るべき「赤信号」は頭上で視野に入って、一応認知はしていたようです。

しかし、そのまま急いで行こうとして、渡ろうとしていた歩行者がいたが、避けようとして左にハンドルを切り、アクセルを踏んで、既に渡り終えようとしていた歩行者を意図的に狙ったかのように跳ねてしまったようです。

見えた信号が「青」なら自分の側は見えなくても当然「赤」なので、当然それに従うはずですが、目の前の青信号と当人のさっさと行かなくちゃという観念が結びついてしまったのかも?

赤信号に気づいていたようですが、目の前に歩行者が見えても、現実感が希薄で、精神的にも身体的にも鈍くなっており、反射的にブレーキをかけるという行為には結びつかず、むしろぶつけないよう急がなくちゃ、と思ってしまい、逆にアクセルを強く踏んで、渡り終えようしていた人をあたかも狙ったように跳ね殺してしまったのだと思います。

直前に、国道の車の流れが途絶えたからサッサと行かなくちゃと国道に出た時の思考が、わずか2~3秒後の、もう赤だからサッサと行かなくてはという思考につながってしまったのでしょう。そのわずか数秒の間の頭の切り替えが高齢者は非常に苦手です。

高齢者の事故のニュースを聞いて、「アクセルとブレーキを踏み間違える人なんて人もいるのねぇ(自分は考えられないけど)」みたいなことを言ってたようですが、自分のとっさの判断力をむしろ過信していたのではないかと思われます。
この場合、踏み間違えではなく、アクセル踏まなくちゃ、と思って踏んだのだろうし。

これは高齢者でなくともあり得る事故でしょうけど、高齢者ならむしろ確実に起こしてしまう事故のようにも思います。
わりに意識はしっかりしていた人みたいですが、足が悪く身体的な能力はかなり衰えていたようで、自覚も乏しかったのでしょう。

ブレーキとアクセルの踏み間違いは免許取り立ての若い人でも割によくあることで、高齢者よりも少ないわけではないようです。
若い人なら間違えたと思ったら、というよりも思わなくても脊髄反射レベル?でアクセルから足を離してブレーキを踏むので、事故にはなりにくいのでしょうけど。
おそらく高齢者の場合は、あれっブレーキを踏んでいるのに止まらない、もっと強く踏まなければと思ってしまうのでしょう。
認知が遅く修正能力が乏しい、もしくは思い違いを起こしてしまう。

友人・知人のことですが…

しばらく前に、10歳くらい上の友人に久しぶりにあったら、ボコボコに凹んだ車でやって来ました。何度もブツケたようです。
私が同乗している時も、電柱に軽くぶつけました。
車はゆっくりでたいしたことはありませんが、私は目の前に電柱が迫り思わず「バカ、バカ、ヤバいっ!ヤメロっ!」と思わず叫んでしまい、要するに鈍い私でもそのくらいの余裕はあったわけです。

「えっ!何かあったんですか?」と言っても「いや別に、何でもない」とショックを受けたわけでも深刻でもなさそうです。私が叫んだので不機嫌になったかと言えばそれほどでもない。
車を降りて確かめるわけでもなく、降りてから私が確かめると、バンパーを軽くぶつけただけで、特に傷ついても凹んでもいませんでしたが。だし。

元大学教師でその分野では第一人者、著作は今も多くの大学で教科書として使われている位で、知的にも優れ割に冷静な人です。

40代の頃(私は30代)は同僚だったのですが、随分と忘れ物が多いことに気づきました。なるべく対策した方が良いと言っていたのですが、自覚に乏しいのか対策しようとしないのが不思議でした。

10年ほど経って、私も同じくらいの歳になった時、急に忘れっぽくなってしまい、対策しようと思うのですが忘れっぽくなったこと自体を忘れてしまう。それでも肝に命じて徹底的に忘れる時の思考や行動のバターンを分析して対策し、忘れ物はほぼ無くなりました。
しかし、物忘れがひどくなる傾向は止められず、スケジュールなど忘れた、それも対策し、いろいろやらなくてはなりませが、やはり自覚と対策が必要かと思います。

私の周囲には、「俺はまだまだ若い」と若ぶる人はあまりいませんが、昔お世話になった教授がそういうタイプで、実際に年の割に若々しい方ではあるのですが、やはりそういう人は事故を起こしやすいように思います。

大学の運動会で皆はヤメロやめろと言ったのに(医学部だし)いきなり走って案の定、心臓を壊してペースメーカーを着ける羽目になってしまいました。
その時私は一緒ではなく、もしその場にいたらやはり止めるでしょうけど、実際に止められた自信はありません。殴るわけにもいかないし。

今年の年賀状には、自転車ですっ転んで大怪我をして半年も入院していたと書いてありました。もう80歳近いですが、新しく別の大学に学科創設のために働いており、どうなることかと思ったら教え子(私の教え子でもある)を教授に据えて何とかやっているようです。

私は中高年向きのサイクリング車の開発に(間接的にですが)少々かかわっており、一般市販車が近々発売になるので、それを勧めるつもりでいましたが、その矢先のことでとても残念です。

その自転車は効率良く疲れ難く、気分良く走れるし安全性が高いので、中高年以外にも大いに勧められるもので、革命的な自転車です。
以下をクリックして見て下さい。

山歩きには何度か誘ったり、勧めたことがありますけど、そういうことは好きではないようで、断られました。
実際に行ったら、せっかちで配慮に乏しく、どんどん先に言ってしまい「お~い、皆遅いぞっ」とか言って、その後にはすぐにへばるようなタイプなので、向かないのでしょう。

どうしたら良いのでしょうか?

都会の人、都市部の人は、とにかくなるべく早く免許は返納して、公共交通機関の利用を心がけるべきかと思います。車に慣れている人は面倒だと思うかも知れませんが、そうでもありません。何事も早めに慣れたほうが良いと思います。

自転車はさっき述べたような、安全性の高いものにするとか。電動アシストは高齢者には向きません。クロスバイクなど前傾する自転車ももちろん不向き。

元自民党幹事長の谷垣禎一さんなんかも、体力はありレースでも速かったようですが、どうみても70歳のお爺さんでしかなく、ロードバイクが危険なことはわかりきっていますが、まだまだ若々しいつもりでいたり、スポーティなものがカッコイイという偏見や信仰に支配されていたのでしょう。マニアであっても自転車には無知でした。
事故で大怪我をしましたが、そうでなければ今頃、総理大臣になっていたのではないでしょうか?

困るのは地方の人で、車よりはスクーターとかカブなんかの方が良いかと思いますけど。運動能力などの衰えを自覚しやすいし、事故はむしろ起こしやすいかもしれませんが、他者を巻き込み被害者を作ることはだいぶ避けられる。

むしろマニュアルミッションの方が良いかも?
高齢者はマニュアルのみにするとふるい分けにはなるかも?
今はマニュアル車は少ないですが。

いくら何でも、90歳にもなったらマトモに車が運転できるとは思えません。茅ヶ崎の人も年齢の割にはしっかりしていたようですが、どう見ても90歳の老婆で、飯塚幸三も川端も年齢相応もしくはそれ以上の衰えはありそうで、その位の年齢でも車を安全に運転できる人は殆どいないと思います。
免許取得が18歳なら強制的に80歳か85歳位で失効とすべきかとも思います。

自転車だけでなく、高齢者向きの移動手段など、いろいろ考えてはいるのですが…

そんなわけで、私も高齢者に差し掛かったきたし、いずれにしても他山の石としなければ、と思っています。

やはり自覚と対策が必要で
・問題があったら徹底的に分析し、対策を身につけ習慣づける。
・他者の失敗を自分の身においてよく考える。
・相談できる相手をつくり、意見をよく聞く。
(「老いては子に従え」ですが、私には子供はいないので)
・人の意見はなるべく素直に謙虚に受け入れる。

など心がけるようにしていますが、他にも方法があるでしょうか?

高齢になる以前に、中年期から、というよりも若い頃から20歳も過ぎれば衰えはあるはずで、そうしたことも自覚する必要があり、やはり若い頃からの心がけや習慣が大事だと思います。
飯塚幸三などを批判している若い人も、歳をとったら彼のようになるのでは?などとも思います。

若い頃からなるべく自分の弱点・欠点を自覚し、改善するように努力すべきかと思います。そのためには、私の提唱するこのセルフ・セラピーは大いに役立つはずです。


「発達障害」developmental disordersという誤訳

【「発達障害」developmental disordersという誤訳】

「障害者」「障がい者」「障碍者」といった表記にこだわる人が少なからずいるようですけど。個人的には正直あまり気にしていません。
元々リハビリ系なので「身体障害の作業療法」「精神障害の…」、「発達障害の…」といった言葉に慣れており違和感がなかった。
障碍者という表記が一般的になったら、もちろんそれを使いますけど。

しかし、治療法を身に着けて、実践するようになってからは、「精神障害」という言葉はあまりにも違和感があり、使わなくなりました。
必ずしも適切ではないかと思いつつ「精神疾患」は多用してますが。
理由はおわかり頂けるかと思います。

聴覚障害のことを「つ○ぼ」、聾唖のことを「お○」、視覚障害のことを「めく○」脚が不自由な人のことを「びっ○」と言うのも当然止めたほうが良いと思いますが、要は使う人と受け取る側の問題で、そもそもはそんなに悪い言葉ではなかった気もします。

液体や気体などを扱う機器の領域では、盲栓という言葉が多用されており、私のように古い人間は、ついついメク○センと言ってしまうが、今はモウセンと言うのだろうか?漢字だとで同じだし、読みだけ変えてもどうなんだろう?という気はする。

言葉はそれを使う人の意図や理解、考えや感情などの問題であって、差別や蔑視などが悪いのであって、多くの場合、言葉が悪いわけではないような…

もちろん、差別感や蔑視などを伴って使うことが多い言葉や、そもそもそうした意図があって使われるようになった言葉は、受け取る側の多くが傷ついたり不快になる言葉は止めるなり変えるすることが必要だと思います。実害を減らすことにもなる。

知人に、外国人を前にすると、やたらと「ke唐」とか「アme公」なんて連発する爺さんがいましたが。相手はもちろんわからない。医者で大学教授だし英語もできるし、面白くて良い人でしたけど。戦中派だからか趣味悪いね。

「キチ○イ」と言うのも元々そんなに悪い言い方でも無かった気がします。要するに「気が違う」ということで差別的でもないような?
「気」という言葉は明確ではなく、わかったような使われ方をするので、事実の理解はつながらず、あまり良い言葉ではないと思いますけど。

あまりにも問題が多い「発達障害」という言葉ですが…

ところで問題の「発達障害」ですが、これは昨今一般的に広まったのとは違う意味で使っていました。
要するに精神疾患ではなく、主に遺伝や先天的もしくは周産期の問題による(主に)中枢疾患など、具体的には、脳性麻痺、精神遅滞、知的障害、自閉症、ダウン症など。
英語ならdevelopmental disability だと思いますが、英語は不得手なのであしからず。

DDと言っても、developmental disabilityを発達障害と訳すのは一応可としても、developmental disorders を発達障害と言うのは誤訳なので改訂されるようです。

逆に「発達障害」を英語にしてもdevelopmental disordersにはなりません。disorderの日本語訳は無秩序、混乱、不調、不具合であり障害とはならず、障害は英語だと、機能障害(impairment)、能力障害(disability)、社会的不利(handicap)なので。
そのため、2023年を目処に正式な訳語が決められ改訂されるようです。

特に精神発達上の問題を「発達障害」と言うのは完全な誤りで、様々な害があり、精神医療はこの誤りに陥り、拡大させています。
AD/HD、広汎性発達障害、アスペルガー症候群、学習障害などと称する場合に使われている「発達障害」のことですが。

この場合は「善意の陰謀」というより多分に無自覚に利用され、疾患喧伝、過剰診断、向精神薬害をもたらすばかりでなく、学校の教師や親や当人にも様々な問題、弊害を生じさせる言葉でもあります。
そうしたことは他でも述べたし、ここではこれ以上論じませんが。

developmental disorderが、どういう訳語になるのかはわかりませんが、社会不安障害、双極性障害、気分変調性障害などの誤訳は○○症になるようです。
心身症を身体表現性障害などと言うようになったので、むしろ逆戻りですけど、その方が良いと思います。

こうした誤訳はDSMと共に広がり定着したようですが、当初はそんなに悪い言い方ではないように思いました。
しかし、専門家とされる精神科医や、患者さん、一般の方の受け取り方や使い方は我々とは違ったようで、大いに問題アリの言葉になりました。

誤訳を訂正するのは良いことですが、精神分裂病が統合失調症になった時と同様に、名称を変えても精神科医の誤解や無理解、有害な精神医療は改善しそうにないので、悲観的にならざるをえませんが、どちらかと言えばマシになるのでしょうか?
精神科医や臨床心理士よりも、一般の人に期待したいところです。

国語(現代国語、現代文)の勉強は大事です

【国語(現代国語、現代文)の勉強は大事】

国語(現代国語、現代文)の勉強は大事です。
文章が読める、書けるつもりでも意外にできていない人が殆どです。文章がきちんと読めなければ問題文の意味もよくわからないし、上手く書けなければ回答も上手くできない。
当たり前ですが、なかなか自覚するのも難しい。

国語は短期の学習で成績向上につながるだけでなく、他の教科の学習にも役立ちます。
英語を読解したり書いたり訳したりするためにも、もちろん国語力は必要です。
論理的な思考ももちろん大事で、理系の科目だけやっても半分位しか身につかないのでは?

数学の本質は計算ではなく、言葉の定義や操作です。円周率とは3.14でもπでもなく、円の直径と円周の比率ですが、それが何を意味するのかが問題です。
逆に数学の勉強は言葉の勉強、論理の勉強とも言えるでしょうけど。

大学教師をやっているときに、国家試験の対策を担当していました。国立大学は基本、ほったらかしですが、私立だと合格率は学校の評判にも関わるし重要なので模擬試験だの卒業試験をやって、デキの悪い学生は留年させられる。それで授業料も随分余分に取れますが、学生や父兄の方もあと1年だけなら、となるわけです。

しかし、私のいた国立大学でもかなり落ちる人がいて、就職してから就職先にも迷惑をかけるし、クビになるし本人も困る。臨床に役立つ勉強をしなくてはならないのに、いつまでもそんなことに時間や労力を使うのも無駄と言えばムダ。

そのときに思ったのはやはり国語力が乏しい学生が多いということです。必要なのは主に読解力ですが。
あまり成績の良くない学生が、よく「引っ掛け問題が多いから注意しなくてはいけない」などと言っていました。

基本、試験にはひっかけ問題はありません。特に入試や国家試験などには。
もしそのような誤解を招きやすい問題があったとしたら、不適切問題になるので問題をつくる段階で徹底的に排除されるか、採点対象から外されるはずです。

要は、問題はわかりやすく誤解がないように書かれているのに、自分が勝手に誤解して勝手に引っかかっている。
逆に問題を正確に読むことができれば、ヒントになるようなことが問題文にはいくらでも隠されています。推論も必要ですが。

その勝手にやたらと引っかかっている学生は、普段もこちらが言わんとすることの意味や意図がうまく伝わらず、やはり話が通じ難かった。

あまりでかい声では言えませんが、私は現役のとき現代国語は得意になりましたが、漢文・古文の勉強はほぼ全くやらず完全に投げていましたが、入試のときに時間が有り余っていたので、問題を見ていたら答えがけっこうわかった、もしくは推測できました。
もちろん合格した。

最近の事情は知りませんが、その頃のリハビリ国家試験の合格点は6~7割程度と言われていました。
マークシート方式で5択から選べば良いので、デタラメでも2割とれるし、高校程度の勉強をそれなりにやっていれば半分はとれるのでは?とさえ思えてしまう。
もちろん3~4年も専門の勉強をしていれば、合格できるのが当たり前で、実際に自分の卒業した専門学校は創立以来、一人も落ちた人はいませんでした。しかし国立大学を出ても落ちる人がけっこういるのです。

※国語が苦手な人は…

とりあえず、国語が苦手な人は文章の読み方が荒く、正確に読んでいません。
推測して考えるのは良いのですが、文章を正確に理解せずに、著者の考えや意図に自分の勝手な推測を紛れ込ませてしまう、思い込みや先入観を持って読んでしまい、それを修正できない、といった問題もあると思います。
当然のこと、問題文を読むときにもそうした傾向があり、知識があって答えられるはずでも、問題を読む時点で正答から外れてしまいます。

よく本を書いた人が、自分の書いた本が国語の入試問題に出題されたのでやってみたら、あまり点数が取れなかったなどと言う話がありますが、これはある意味では当然と言えば当然です。
問題を読んで得られることだけしか回答にはならないので、いくら著者の考えや言いたいことを理解していても、あるいは推測して当たっていても、それで答えるわけにはいかない、そうでなくては答えられない問題は問題として不適切です。

もちろん、大学に入ってからも仕事をするようになってからも文章を読んだり書いたりすることは重要です。
これも大学教師をしている時によく思ったことですが、ちょっと難しい文章になると途端に理解できない学生がよくいました。高校までの教科書にはあまり難しい文章は出てきませんが、専門書となるとどうしても文章も理解が難しくなります。

やはり専門的な知識を得るには本を読んで理解して勉強する、ということも大事ですが、文章が理解できないのでは勉強にならない。頭が悪いわけでもないし、英語もそこそこできるのに、日本語を読む能力が乏しい学生も少なくなかったと思います。

「読み、書き、そろばん」とはよく言ったもので、もちろん聞く、話す、ということも含めて。
「そろばん」は現代ならさしずめパソコンですが、当時は普及し始めた頃で、基本的なことはできた方が良いと言っても意外に抵抗を示す学生がいました。まだ、若いのに。
研究とか言っても使えないので、私はパソコン教室の先生じゃないんですけど、ずいぶん教えました。物理の先生はBASICとか教えてたけど使い物にならない。

ある卒業生に「何でやらないのか?」と聞いたら、「パソコンができたら仕事を頼まれて断れない。だから憶えないようにしている。」と言われて唖然としましたが、それから何年もしないうちに電子カルテが普及し、使えない人は医者でもリストラという事態にもなりました。
「仕事はやった奴が勝ち」です。

とりあえず、今は良い参考書や問題集もあります。
きちんとやれば短期で国語力はつくはずで、国語の成績だけでなく、他の教科の成績も上がるはずです。
もし回答を間違えたら、なぜ間違えたのか徹底的に自分の認識や理解、思考回路の検証が必要で、こうしたことは他の学問分野や人間関係など様々なことに役立つ、というよりむしろ必須のことです。。

本末転倒、倒錯した精神医学研究「うつ病の発症、HHV-6が持つ遺伝子が関与か:慈恵医大」

本末転倒、倒錯した精神医学研究「うつ病の発症、HHV-6が持つ遺伝子が関与か:慈恵医大」

またまたこういうのが出てきました。
少し前の2020年6月頃の話題ですけど。

うつ病の発症、HHV-6が持つ遺伝子が関与か:慈恵医大
https://www.carenet.com/news/general/carenet/50201

うつ病の原因遺伝子の発見
-ヒトヘルペスウイルス 6(HHV-6)の潜伏感染はストレス応答を亢進させることで、うつ病のリスクを著しく上昇させる-
http://jikeivirus.jp/wp-content/uploads/2020/06/2b5442c6724af0b997f15463558a52c9.pdf

当然のこと、以下のような批判もあります。

東京慈恵医大による「うつ病の原因遺伝子の発見」の矛盾
https://matsumoto25.net/2020/06/25/sith1/

前にも書いたけど、いつものようにこんなのが現れては消えるでしょう。
原因と結果が倒錯し、本末転倒しているからこんなことになる。
本質を理解しようともせず、それ以前に事実を捻じ曲げたり否認したり。
なぜ、そんなに認知の歪みや欠落が甚だしいのでしょうか。
精神医学には既に優れた先人の知恵もあるのに、それは全く無視。

精神医学の研究と言うのは皆の普遍的な利益や、健康と幸福を追求するものではなく、殆どはある種の人や集団や組織の利益と結びつくことだけしかやりません。
簡単に言えば金と名誉。

では何をどのように研究したら良いのか?
もちろん、臨床的な観察、洞察や理解が基本ですが、理解が優れた研究法の一つは、以下でも提示しています。

精神医学の研究法のご提案:精神科医や臨床心理士の皆様へ
(うつ病、心的外傷後ストレス障害PTSD)
https://self-therapy.info/2017/01/17/pc/


このような物質的な「精神医学研究」は今まで繰り返してきた通り、そのまま立ち消えになるのでしょうけど。
もしかすると、何らかの「新薬」の開発などに結びつく可能性はあるのかもしれませんが、結果もわかりきっている。
「効果」はあっても乏しく、弊害や危険性は高い。「効果」と言っても現行の抗うつ剤を上回るものではないはずで、もちろん良くなることとは違います。
「効果」があれば弊害や危険性もそれ以上に高い。

それにしても「うつ病の原因がわかった」なんて今までも散々言われてきたし、二十年以上も前から「うつ病は薬で治る」と言っていたではないか。嘘つきばかり。
「嘘つきは精神科医の始まり」なんて標語も流行ったな。
♪誰が言ったかしらないが♪俺かな?
ただの喧伝にしてもウソばかりではいけないが、なぜか公共広告機構ACジャパンに訴えられることはない。

脳科学やら、生物学的、化学的、物理的などフィジカルな観点から、物的還元主義で研究を進めても、それは進歩ではあるのかもしれませんが、どこまで行っても平行線で精神疾患に近づかず、理解もできず成果も得られません。

こうした研究の結果、何らかの「治療法」に結びついたとしても、ロボトミー(精神外科)、電気ショックや磁気刺激、薬物などなど「効果」はあっても良くなるものではなく、弊害やリスクは極めて大きいものになるのはわかりきったことです。

そうした誤りを繰り返してきたのが、精神医療の歴史ですが反省もない。
「歴史は繰り返す。但し二度目は茶番として」

壮大な無駄とも言えますが、それで経済が廻っていくのでしょう。
「精神科医、功成りて万骨枯る」
でもいつまで続くのかな?

そんなことはない、科学技術の進歩に限界はない、いつかは「うつ病」の生物学的な原因と治療法が発見できる、とお思いでしょうか?

もちろん我々が既に行っている治療の合理性を、物的な事象を基礎に確認したり証明はできるかもしれませんが、それには及びません。弊害もリスクもなくて、結果が得られればそれで良いとも言えますが、原理的にも優れた治療であることは明らかなので理解すれば良いだけです。

でも、もしかしたらこれらの生物学的、物的「精神医学研究」によって、有効な治療法が発見、もしくは発明されることがあるのかもしれません。絶対にありえないとまでは言えないと思っています。

しかし、それができる頃には既に生身の人間か、アンドロイドか、ゾンビか、AIロボットだか何だかも区別が無くなっているでしょう。

そうした世界を皆さんは望むのでしょうか?
それ以前に、世界は存続できるのでしょうか?
私は、SFは好きでもなく苦手なので、考える気もありません。

それはともかく、
既に精神医学にはフロイト先生を始め、治療に直結するものではなくとも優れた先人の知恵もあるのに全く無視、否認。
完全なんてありえないけど、とても優れた良い治療法もあるのにね。
病院に行ってもそれは得られませんが、これを読んだ人はその恩恵を享受できるかもしれません。

なぜ受験コースを敢えて提唱するのか

【なぜ受験コースを敢えて提唱するのか】

私が受験勉強を奨励するかしないかと言えばどっちでもあります。

・もう科学技術の発展はこれ以上必要ないのではないか?
・AIだの何だのは人を幸福にするか?社会を豊かにするか?
・勉強も科学技術も人間を疎外する。(のではないか?少なくともそういう面はある)
・ガリ勉だの競争だのは、中国や韓国その他の国に任せて、日本は本当の「先進国」を目指すべきではないか?
・差別、抑圧や階級社会、格差拡大はけしからん。競争社会は大嫌い。
 ますます世知辛い世の中になってしまうぞ。
・もはや学歴社会ではない。(これは皆が言ってる)
・これからの時代、知識の蓄積が役に立つわけではない。
 (これも皆言ってるけど…)
・精神科医など受験勉強のやり過ぎで頭がパーになったのではないか?
・高学歴の人にも視野が狭い人が多い。偏見もあるだろうけど特に医者
などなど、否定的なことばかり言ってるし。

だからこそ、避けられないなら(避けるという道も大アリだと思いますけど)
・効率よくなるべく時間をかけず楽しくやった方が良い。
・青年期の通過儀礼としての意味はある。
・人間、目標がないとなかなかやらないものである。
 目標を自分でつくって達成するという体験も必要
・精神的なプレッシャーに耐えつつ克服する体験も必要
・後々、様々なことを知るための認識の枠組みみたいなものはある。
・どうせやるなら、知識ではなく事実を知り理解して、他のことにも役立つようにしよう!
などなど、とも思いますけど。

でも、それだけなら私が受験勉強のことを言う必要もないと思います。

和田秀樹という精神科医で受験勉強の専門家もいるし。
彼は中々良いことも言ってるし、精神科医としても割にまともな人だと思います。精神科医の活動は実質殆どしていないようなので。

それでも敢えて、受験コースを提唱するのは…
・やる気、根気、集中力など大幅に改善、向上させる方法を知っている人は、私以外にはたぶん誰もいない。
・受験に役立つだけでなく、精神の健康、生涯の幸福に役立つことを教えることができる。これも実質、私以外には殆どいないでしょう。
・それは善を目指すことでもあり、人類、社会、世界、未来に貢献することでもある。
・これからの未来を担う若者たちをサポートしたい。
・この治療法を後世に残したい。
ということです。

他にも書きましたが、その方法は精神疾患の自己治療法と同じです。
したがって受験コースと言っても、マニュアルの販売、相談・施療指導と提供できることは同じです。患者さんと受験生を区別する必要は基本的にはありません。
「受験コース希望」と書いて頂ければ、簡単なリーフレットをオマケしようかと思ってます。気が向いたらね。
もちろん、実際に相談・施療指導にいらした方にはなるべく個々人に合わせた指導をします。

実績もあります。
実際には私自身は殆どと言っても良いくらい、勉強はしたことがないです。
私立文系の大学に行くときは3~4カ月くらい、医療系専門学校(競争率が高くけっこう難関)に行くときは1~2カ月かそこらしか勉強はしていませんが、短期で大きな成果を上げた実績はあります。
一応、文系も理系の勉強もしているし、多少とも体育(運動学)や音楽の勉強もしています。
勉強らしい勉強はしていない、というよりできなかった主な理由は子供の頃から精神病になったからであり、能力的にはともかく、広い意味では決して勉強嫌いではないかも知れません。
医療系国立大学の教師も10年以上の経験があり、多くの学生を見てきました。入試の担当委員もしていたことがあり、採点に関わったり、センター試験だけでなく、試験監督も随分やりました。そういうのは皆、やりたがらないので。

何よりも、長年セラピーをやって不登校などの患者さんの治療に大きな成果を上げ、成績も全く振るわなかった生徒が、難関の高校や大学に行ったり、勉強など手につかず殆どやらなかった人がやるようになった、といった実績は数え切れないくらいにあります。
これだけの実績は他にはないはずです。

他の理由としては、あまり馬鹿正直に言うものではないかもしれませんが、お金を稼ぐためです。
この自己治療法を今後世界に広めるためは、多少とも資金は必要であり、それ以前に私の生活も成り立たなくはなりません。
とりあえず受験という目先の利もあれば、求めてくる人も少なからずいるだろうと思うので。

というわけで、受験コースを提唱し、受験勉強についてもこれから書いて行きたいと思います。

日本精神医学会の学会誌・学術誌「精神神経学雑誌」、MEDLINE(米国国立医学図書館)から収録拒否

【日本精神医学会の学会誌・学術誌である「精神神経学雑誌」、MEDLINE(米国国立医学図書館)から収録拒否】

別に関心もないし知らなかったのだが…

伝統ある?(確か、大正時代からある)日本最大の精神医学・精神医療の学会、日本精神医学会の学会誌・学術誌である「精神神経学雑誌」は、データシステムPubMedを通してMEDLINE(米国国立医学図書館)に収録とを拒否されていたらしい。
国際的には学術誌とて見做されないということであり、医学雑誌、学術誌としては事実上の廃刊である。

もちろん私は日本精神医学会なんかには入っていないし「精神神経学雑誌」は数年前に一度みたことがあるが、20年以上殆ど手にしていない。

昔に比べてもあまりにもバカバカしい内容になったし、厚さ自体もだんだん薄くなっていたことは感じていた。学術総会も何年か前に横浜で開催された時には見に行ったが、あまりの下らなさを確認しただけだった。
その時のことは前にも書いた。

精神科医は随分増えたし、会員数はかなり今でも多いはずだけど、もはや学会なんて言えるシロモノではなく、学術誌の体裁をなしていない。

当たり前である。
精神科医の依拠するものは、精神疾患の事実ではなく製薬会社の宣伝文句だし。結局、いくら口ばかり上手い連中でも書くこと自体が無くなる。さすがに論文なら見え透いたウソばかりは書けないし。
おそらく査読はあっても無いようなもの、投稿自体も僅かしか無く、箸にも棒にもかからないのが殆どだろう。
んなことは、読まなくてもわかる。

他の精神医学関連学会も推して知るべしである。「うつ病」学会など会員数も多いはずだが混迷あるのみ。

「精神科治療学」「臨床精神医学」やら商業誌も風前の灯だろう。見てないけど。
岩崎学術出版社とか今でもあるようだけど、続いているのが不思議だ。精神分析学会もすっかり小さくなって無くなりそうなのに。

みすず書房はかつては精神医学関係の良書を随分出していたのだが、精神医学関係の本は殆ど出さなくなった。翻訳に値するものさえ殆どなくなっただろうけど、それでも復刻版は出している。
創業以来初めてのベストセラー、ピケティの「21世紀の資本」で随分儲かったようで、売れなくても出したい本を出せるようになったはずだが。

いかなる精神医学書を積み上げたところで、私の書いたマニュアルのほうが遥かに価値はあると思うよ。あまり大きな声じゃ言えないけど、ここだけの話。信じる信じないは人の勝手だが。

こうした状況は日本だけではないはずで、掲載を拒否した米国側だってロクなもんじゃないことはわかりきっている。英語読めないけど。
昔は読めたんたけどやっぱりやってないとダメだね。