【うつ病は脳の病気か?「うつ病」の本質、原因は?】
憶えている人もまだ多いだろうが、2015年2月、川崎市の多摩川の河原で、当時中学1年の上村遼太さんが虐めにより殺害された事件があった。何ともやるせない事件である。
被害者の家庭は母子家庭で、母親は離婚し働きながら5人の子供を育てていたらしい。そのこともいろいろ物議を呼んだ。
多摩川の現場には多くの花束が供えられ、追悼する人も多く訪れて、ゴミの処理も問題になっていた。
主犯の少年も加害者グループではボス格だが、もっと年上の不良仲間に虐められ脅迫されており、家庭では虐待されていたという。
主犯者の子分格の一人は、被害者と仲が良かったらしいが「ゴメンな」と言いながらナイフで切り付けたという。
今一歩の冷静さや勇気と洞察力、判断力があったら虐めを止めらる可能性もあったのではないかという気もするが、彼らもまた幼児期からのトラウマに支配され、集団的な感応現象が起こっていたのだろう。
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ネットでたまたま見た記事なので、詳細は憶えていないのだが…
ある霊能力者の有名人に、相談するという形の記事である。
相談者は被害者や家族とも、もちろん加害者とも関わりはなく、現場近くに住んでいるとかその程度の関係。
事件の報道を知ってからもうだいぶ経つのに、とにかく被害者の少年がかわいそうで、哀しくて辛くてしょうがない、悲しんでもしょうがないと思うけど、という内容である。
これに対して霊能力者の回答は…
悲しむべきではない、それは貴女の自己満足に過ぎない。為すべきことは虐めを無くすための努力、具体的な行動や活動であり、それをせずに悲しむだけでは供養にもならない、といったものであった。
ありきたりの答え、当たり前、常識と言えばそうだが…
現実的には虐めを無くすための具体的な活動が、一般の人にそうそうできるものでもない。
虐めの現場やその兆候を見つけたら介入する止める、それだけでも大人にとっても難しい。教師でさえ見て見ぬふり、それを咎めることさえ難しい。もちろん自分だったらどうか、ということにもなる。
悲しい、辛いからこそ虐め撲滅のために働く動機にもなる、とはいう面ももちろんあるだろうけど…
では、被害者を憐れんだり悼み哀しむだけしかできないなら、そんなことしない方が良いのか、供養にもならないのか??
そんなのは自己満足、というのは被害者に自分を投影しているだけだから??
悲しいことは忘れて、あるいは忘れずとも、前向きに明るく楽しく生きた方が供養になるのか?
あの世や魂がなければ、神の存在を前提にしなければ供養って成立しない?
弔いは不要か、自己満足のためか?あるいは遺族や関係者の癒しのため??
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うつ病の本質、少なくともその一部は悲感哀、罪業感、虚無感といったことであるのに異存はないと思う。
かつて昭和の時代の、うつ病患者(主に中高年)の生活史を調べると、以下のような幼児期もしくは遠い過去の患者の周囲に、大きな悲しみや精神的ショックをもたらす出来事や状況が多くみられる。
パニック障害などの場合は、患者の憶えていない、知らないような遠い過去ではなく、割に最近の出来事が病因の大きな要素であることが多いが、それにしても当人はその意味に気づいていないことも多い。
例えばであるが…
患者本人の少し年上・あるいは年下の兄弟姉妹(となるはず)の人がいたが、病気や不慮の事故に遭って亡くなり、妊娠中、もしくは患者の幼児の頃、母親は悲しみにくれ、その中で幼児である患者の子育てをしたせざるをえなかった、といったケースが非常に多い。
昔は医療も発達していないし衛生状態も悪く、幼児が病気や不慮の事故で亡くなることは非常に多かったのである。
あるいは母親の肉親が亡くなり、ショックに打ちひしがれ、悲嘆にくれていたなど。
もちろん父親の関係者が亡くなったなどの場合もあるが、その場合父親自身の精神が荒れすさんだりして、母親もその影響の中で子育てをせざるを得なかった、といったような場合。
そうしたことが無い場合でも、両親の結婚が悲しい妥協結婚で家庭内離婚状態であったとか、嫁姑問題で激しい確執や葛藤があって、嫁である母親は大いに苦悩したり悲嘆にくれていた場合など。
さらに言えば、そうした問題がなくとも、祖先にそうした問題や事件などがあり、子孫に大きな悲しみや苦しみを残し、患者の幼児期の家族関係に影響していた場合など。
何代も代替わりすれば、おそらくそれなりに忘却され浄化され、それ程の影響はなくなるのが殆どだろうけど。
それでも何代も前のことが、大きな影響を残す場合もあれば、十何代も前(数百年前)の殺人事件がど、うつ病患者の幼児期、家庭環境にも影響し、それが主な原因としか考えられない場合もある。
精神医療には、患者個人のの成育歴、生活史だけでなく歴史的背景を知ることも必要である。
霊障というような先祖代々からの精神的な直接的な影響もあるのかもしれないが。
そうしたことよりむしろ、世代にわたって子供育て方・接し方、家庭環境などを通して、しばしば増幅されて心理的・精神的に連鎖する。(トラウマの連鎖)
このようなことをを示唆したら患者本人も、激しく納得していたことは何度もある。
本人も家系的な問題は知っていたのである。
もちろん、加害者側の場合も被害者側の場合もあるし、祖先ではなくその関係者の場合もある、というよりむしろその方が多いかも…
(被害者のトラウマももちろんあるが、加害者としてのトラウマもある)
「うつ病」を遺伝による脳病としての内因性精神病と考えてしまうと、当然のこと「(非)選択的非注意」により病因となる出来事や状況は見えないし、詳細な病歴をとっていてもその意味が見えることはない。
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霊能力者にはそのようなことが見えるのだろうか?
わかっても対処法はなく、一般に霊能力者が対象にするのは憑依精神病の患者であり、統合失調症やうつ病、神経症なども対象にはしない。
精神疾患の人を対象にしても何ら改善せず、金ばかり取るのはインチキ霊能力者の常套である。
私の昔の知人に、『精神分裂病(統合失調症)もうつ病も神経症も、あらゆる精神疾患は憑依精神病・神経症でもある』、と言う霊能力者がいた。『無意識と心霊現象は同じことを別な見方をしているだけ』とも言っていた。
当初は私はその意味がよく分からず、理解に苦しんだ。
科学主義者、合理主義者というのでもないけど、そういう胡散臭いこと、眉唾ものは大嫌い、根拠のないことをもっともらしくいうのも大嫌いだった。
その霊能力者も除霊をするのは(狭義の)憑依精神病に対してだけで、一般の精神疾患の患者にはカウンセリング、心理療法・精神療法といったことで対応していた。
その能力は「黙って座ればピタリと当たる」というような天才的なもので、精神科医や臨床心理士などとは圧倒的に次元が違う。私も大いに参考にさせて頂いた。
仏教が祖先を大切にしましょう、お墓や仏壇を拝みましょうというのは、もちろん理由のあることだろう。
健康的、幸福であるならば当然のことであるが、そうでないならば…。
したくないのに無理に拝んだり供養するよりも、おそらくしない方が精神の健康、メンタルヘルスのためには良いと思う。
むしろ心から拝めるようになるよう努力すべだろうし、そうなってから拝めばいいと思う。
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話を戻すと、肉親の悲しみがあたかも乗り移ったように、時限爆弾のように作用して、中年期を過ぎて「うつ病」を発症する人が多かったのである。
(私と考え方、見方は全く違うのだが)誰かの言葉を借りれば、遅発性・晩発性PTSD・心的外傷後ストレス障害としての「うつ病」である。
子供のころは発達する力があるので、そうそう問題を呈さず、若い頃はまだ元気でそれなりの適応性・順応性があり、仕事や家庭、人間関係など日常生活が特になく問題なく適応できていれば、その段階では、うつ病に陥るようなことはないが。若い頃から「うつ病」というのはよほどの重症だ。
昔から私は「うつ病」をそのように認識していた。
なぜ根拠のない、もしくは現実に相応しくない過度の悲哀感や罪悪感を持たざるを得ないのか?
生まれて数カ月も経たない子供でさえも、悲しみに打ちひしがれて、傷つき落胆している親を何とかしようとする。慰め、励まし、勇気づけ、癒し、導こうとさえする。
またそれができなくては自分自身の生存自体も危うく、良い発達環境も得ることはできない。親の養育なしに幼児は生きては行けないのだ。
親は幼児期の子供のセラピストでもあり、またそうなければならないが、それよりも遥かに幼児は親のセラピストとしての役割を無意識に果たそうとする。
親に対する子供、すなわち幼児の無自覚、非意図的な「心理療法・精神療法」が効果をを上げ、親も幼児の無意識な努力やその成果を認めつつ、感謝しつつ子育てをしていれば,将来的な問題はそれほど起こらないはずである。
それが効をなさなければ、幼児は無力感に打ちひしがれ、(自分が悪いわけではないのに)あたかも自分が親の悲哀や不安、抑うつなどの原因であるかのように思い込み、かつそれを補償できなかった、親を助けなかった、といった罪悪感、罪責感に苛まれる。
もちろん幼児はそれを自覚するわけではないし、記憶もしていないが、だからこそ無意識に影響し、大人になってからこそ、その影響は発現する。
うつ病の罪業感,自責感・無力感などは過去の(主に幼児期の)親に対する罪責感であろう。またそれを助長するような育て方、接し方を無自覚にしている。
罪悪感、罪責感、(理不尽な)要求に応えなければ罰する、叱責すべきでないことを叱責したり、過度に厳しく傷つて罰する、といった親の抑圧の内面化でもある。親にされたように不適切に自分を罪深い罰せられるべきものと考える。
得てして過保護な親は必要な安心感を与えないし、過度に厳しい親は必要な躾はしないものである。
親が「幼児の親に対するセラピー」を感じ取り理解し、感謝しつつ子育てができれば将来的な問題は少なく、一般的には健康的な親、家庭環境であればそうしたことができているはずである。
多く患者の場合は、親に対する子供の治療(心理療法)は部分的には成功するが、親にはそれを認めてもらえず感謝もされず、そのプロセスで子供は傷つくがその補償もされない、むしろ余計に傷つけられる。
もちろん、心の補償が必要なのであって、物質的なもので代えられるわけではないし、歪んだ愛情の押し付け「姑息の愛」や不適切な過保護はその代替にもならない。
上に述べたようなことが、うつ病に限ったことではないが精神疾患の根源的、本質的な原因、トラウマ(心的外傷)ではないかと思う。
「精神疾患は親を治療する過程で傷ついたトラウマが根本の原因、患者とは傷ついたセラピスト」
「あらゆる精神疾患は逆転移精神病・神経症である」
大雑把にいえば…
【健康に育った人】
親のセラピーに成果を上げ、そのことを感謝され、発達促進的な養育を受けた子供。
そもそも親が健康であるために、それほどのセラピーは必要ではなく、子供にとって達成不可能な過大な課題ではなかったという面もある。
【精神疾患に陥る人】
親のセラピーに失敗し、ある程度の成果を上げているのにそれを認めてもらえず感謝もされず、むしろ恨まれたり妬まれたり攻撃されたり。
そもそも親が健康的でなく、過大な癒し要求を押し付けセラピストとしての子供の心を破壊し傷つける。
お前は私を癒し救ってくれないだけでなく、負担ばかりかけた、むしろ親を傷つけたと子供は責めを負う。
傷ついた子供は大人になって、親を救えなかったという悲哀感、罪悪感、無力感、虚無感といった幼児期の反応に加えてもしくは重なって、青年期もしくは成人期以降のの不適応、ストレスで抑うつ状態など精神の不健康に陥る。
うつ病の親は普通、虐待はしないが、精神的虐待という面もあり、一般の虐待なども類似の心的機制によるものと思う。
「毒親」と言うが、親もまた病んでおり、そうならざるを得ない背景や事情、要因がある。
親は健康そうに見える場合や、親自身に病識はなく自分は健康という場合もあり、それなりの適応能力を持っているからでもあるが、それは子供の親に対する「治療効果」のおかげである。
統合失調症の原因は?(ある同級生)
悲哀や罪悪感などに苛まれているだけでは何にもならない、それを克服し前向きに生きるべき、というのは治療志向ではあるだろうけど。
精神分析的には、悲しみにくれ、自責の念を持ち続けなければならない、明るく楽しくやっていくのは身勝手だ、不謹慎だ、というのは抵抗であり、自分は悲嘆に暮れ自責し続けねばならないというのは防衛ではあるだろう。
但し、抵抗・防衛には現実的な根拠もありうる。
現在も親によるトラウマ・ストレスが子供(患者)に与え続けられている場合である。そこから逃れることは親を見捨てることになる、実際に親の精神状態が悪化することを意味する。
ネガティブな毒は子供(患者)に向けられなくなると、それは自分自身に向けられ、対処・克服できない親は毒が回って自分自身が病気に陥らざるを得ない。
しかし自分のことは自分で解決し、克服なければならない。人に押し付けて抑圧してはいけないのである。
ちょっと極端な言い方で気を悪くする人もいるだろうけど。
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うつ病の症状は現実的なストレスには対応しておらず、あたかも何も理由がないのに激しい抑うつ状態に陥っているかのように見える。
実は「実存的問題」で激しく悩んでいたりもするのだが。そうしことは普通は若い頃に苦悩するものだが、その頃は「順調に」やっていおり悩む必要もなかった である。
患者がそうしたことを言うことが少ないのは、そうした言葉や表現は持たない(哲学者でも心理学者でも文学者でもなし)、相手に言うようなことではない、恥ずかしいと思ったり、通じるわけはない(もちろん精神科医やカウンセラーにも)、精神的に相手を押しつぶしてしまうのではないか、そうなったら自分も罪悪感に潰されてしまう、などといった理由によるものだろう。
あるいは患者が現実のショックやストレスを被ってはいても、抑うつ症状、悲哀感や罪悪感が現実的には見合ったものではとうていなくなく、その程度をはるかに超えており、全く相応していないほど激しく過大であったり。この場合は、うつ病というより抑うつ神経症、抑うつ反応というべきかも知れないが。
だからこそ、「うつ病は脳の病気」とも言われてしまうのだが。脳の病気で頭が狂っているから悲哀感、罪悪感にとりつかれ打ちひしがれているのではない。
もちろん脳の状態は良くないが、それを脳の病気とするのは医学的には間違いである。
抑うつ神経症というのは良いとしても、抑うつ性障害ともいうべきではない。
過去の(多くの場合、主には幼児期)のことに影響され、精神・神経が反応しているためにそのようなことが起こっているはずである。
ストレスに弱い、打たれ弱い、対応能力が低いのは、やはり幼児期の問題から、発達期に身に着けた適応能力が乏しいからである。
適応性が保てるうちは病的状態とはならないが、幼児期のトラウマと現在のトラウマ・ストレスが重なると発症する。
もちろん、幼児期のトラウマがさほどなくても、現在のストレスがあまりに激しければ、抑うつ反応が起こり、激しい「うつ状態」に陥るし、それも精神疾患ではあるが、本来の「うつ病」とは言えないだろう。
患者の幼児期には、年の近い兄弟姉妹が病気や事故で亡くなることも少なく、まだ祖父母も健在であることが多いし、とりあえず戦争が終わってからもだいぶ時間が過ぎた。
もしくは、そういったことと類似のショックや悲しみをもたらす出来事が少なくなったことが、典型的な「うつ病」の人が減ったり理由ではないだろうか。
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10数年前からの『うつ病キャンペーン』により、精神科病院、心療内科クリニックの受診者は劇的に増えて、うつ病と診断される人も、新型抗うつ剤の売り上げも激増した。
しかし、かつてのような典型的な「うつ病」患者はむしろ殆どいなくなったのは上述のような背景によるものだろう。もちろんショックや悲嘆がなくなったのではなく、世の中の移り変わりとともに人の心も大きく変化したのである。
統合失調症や他の精神疾患の病像変化も似たような事情や背景があると思う。
「新型うつ病」なんて言葉も広まったが、それはうつ病ではなく、抑うつ神経症でさえなく、敢えて言うならディスティミア神経症とでも言うべか。
そういう人は昔から多かったが、「プライド」も高いので、病気扱いされるとむしろ激怒し、だからこそ何とか社会的威信、自己評価は保てるように努力していたはずである。
またそれが可能な社会でもあった。
世の中も人の心も、見方や考え方や価値観、生活様式なども随分違ってきた。祖先やら家系がどうのという人も少なくなった半面、霊がどうのという人も増えたようである。
もちろん、心の傷、トラウマをもたらすような出来事や、その影響が無くなったわけでも減少したわけではない。悲しい事件や出来事が減ったわけでももちろんない。
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