DSMの終焉、神経症の復権:精神障害(うつ病)・発達障害から神経症(心的外傷後ストレス障害:PTSD)へ
神経症(ノイローゼ)という言葉は、精神科医の中でも一般の人の中でも殆ど使われなくなった。
精神分裂病→統合失調症、というように差別的である、実態を正確には表していない、といった事情で、名称変更が決められたわけではない。
統合失調症への名称変更は、典型的な精神分裂病の発症は殆どなくなったし、病像の変化も伴っており、これとは事情はかなり異なる。
あたかも自然の流れのように消えていったが、もちろん製薬会社、広告会社、精神科医が一体になった情報操作である。
神経症も病像の変化はあるが、昔も今も多いので、私から見れば、昔も今も病気の人はぜんぜん増えてないし、典型的な「うつ病」なんてむしろいなくなり、ただ精神科・心療内科を受診し服薬する人が増えただけである。
うつ病キャンペーン(病気喧伝)により受診者が増え、うつ病という診断がつけられ、抗うつ剤を処方され、それも多剤大量処方が多かったため、そのためアクチベーション・シンドローム(賦活化症候群)で自殺する人も増えた、ということは既にだいぶ知られるようになってはきた。
本来、キャンペーンに従って(踊らされて?)受診した人の多くは「うつ病」ではなく、普通の診断法なら「抑うつ神経症」という診断名が与えられたはずである。
「うつ状態」が主症状ならば、であるが。実際にはそうではない人も多い。
「新型うつ病」なんてのは敢えて言えばディスティミア神経症だろう。
神経症(ノイローゼ)も死語に近いが、本来患者数は多いはずの「抑うつ神経症」は殆ど完璧に死語になって久しい。
ドイツ語ではノイローゼだが、この言葉は、昔の人にはかなり悪いイメージがあったと思う。
有名人が自殺したり、一般人でも妙な事件を起こすと昔の新聞では「周囲の者によると○○さんは最近ノイローゼ気味だったということである」などと書かれていることが多かった。
これは実際には精神分裂病である場合も多かったはずだが、さすがにそうは書かなかった。
こうしたマイナスイメージはノイローゼという言葉にはあったが、同義ではあるが神経症という言葉にそれ程なかった気がする。
また、最近ノイローゼ気味で、など言うのは、あることに悩んでいて落ち込んでいる、と軽い意味で使われることもあり結構広い意味で使われており、あながち間違いでもなかった。
日本では一時、神経衰弱という言葉も使われたようだが、それは大正時代くらいであり、森田療法では森田神経質などと言っていたが、それが広まった頃には一般的には神経症と言う言葉が主流になっていたはずである。
ところが、なし崩し的に言い換えがなされた。
抑うつ神経症⇒うつ病、もしくは抑うつ性障害、気分変調性障害
躁うつ病⇒双極性障害
強迫神経症⇒強迫性障害
不安神経症⇒社会不安障害
ヒステリー⇒転換性障害
心身症や自律神経失調症⇒身体表現性障害、
名前の付けようがない神経症は適応障害といった風に。
これはDSM由来でもある。DSMは当初、日本の精神科医にはなかなか受け入れられなかったが、製薬会社にとっては、薬漬けにするためには甚だ都合が良かったのである。
従来なこれらの精神障害とされる患者の殆どは神経症というカテゴリーに入るはずだが、それでは心因・環境因ということになり「薬物療法」の対象にならない。
実際に昔から神経症の患者は多かったが、殆ど病院には行かず、基本何もしようがないし、病気というほどではない、性格的なものだとか、あまり気にすんななどと言って帰すことが多かった。カウンセリングなども殆どなかったし。
精神科医も気休めに精神安定剤など出し、漫然と服薬して良くなりもしないのにダラダラ通わせることも無いではなかったが、ほとんどの場合、単剤で量も少なく、そもそも受診者・服薬者は少ないから、薬害が問題になることもなかった。
また、人に言うのも憚られるので情報が共有されることも少なく、こんなの自分だけかとひそかに恥じている人が多かった。もちろん、ネット等もない。
うつ病キャンペーンは大成功のうちに収束していったが、「発達障害」のデタラメ診断、空手形乱発!「問題児、発達障害児狩り」がそれに続いて盛んになった。
発達障害についてはまたいずれ書きますが、最近だと週刊誌「女性セブン」に医療評論家による良い記事が連載されたようです。
障害というのは本来治らず機能欠損や低下が長期にわたるということである。
したがって、狭義の医療の対象ではなく、訓練・療育やリハビリ、福祉の対象。
手足を切断した者を身体障害者と言うが、スキーで骨折した者はケガ人であって、身体障害者とは言わない。
精神障害者という言い方は昔からあるが、精神医療の主な対象疾患は長らく精神分裂病が殆ど、不治の病とされていたというそれなりの背景があった。
私は昔から障害とは言わず「精神病・神経症」「精神疾患」と言っている。これもネガティブな響きが伴うし、あまり適切な言い方ではないが、他に言い方もないし、あえてそう言わざるを得ない。
うつ病は受診・服薬で治ると宣伝されているが、当然、実際には治らない。もちろん、うつ病だけではない。製薬会社、精神科医が「障害」というのは、治らないことの言い訳のためのでもあり、障害なんだんから治らなくて当然という、開き直りを隠しつつも準備していたということである。
薬で治る⇒薬害⇒やっぱり病気だったでしょう⇒障害者化⇒薬でコントロールしながら障害とうまく付き合っていきましょう⇒(こういう言葉は使いたくないが)廃人化
うつ病に限っては、抑うつ性障害などとあまり言わなかったのは、宣伝・イメージ形成に齟齬や不協和を来たして、マインド・コントロールに不利になるからだろう。
いきなり、治る病気ではありません、リハビリが必要ですなどと言うわけはにはいかない。
気分変調性障害と言い方も、あまり使われないが、気分だけじゃないし、精神科医・患者の双方から不満が出そうであまり広まらなかったか。
もちろん神経症→○○障害という置き換えも、何でも「うつ病化」も、薬漬けにするため、製薬会社や精神科医の利益のためである。
もっともDSMではdisorderだろうから(面倒なので確かめる気もなし)障害と訳すのは不適切であり、敢えて訳すなら不調とかそういった意味だろうから、特に間違いとも言えない。そもそもDSMの原因論を避けるという方針に基づいた表現だとはいえる。
しかし、日本では神経症→○○障害という言葉の置き換え自体が、医療信仰と薬物崇拝とDSM流の見方が結びつき、精神医療過誤・向精神薬害を広める役割を果たしてしまった。多分に無自覚に、だとは思うが、頭の良いコンサルや広告会社の人は悪意の解離された意図に基づいて積極的に広めたのかもしれない。
神経症の凋落は同時にDSMの蔓延であり、精神分析学の凋落でもあった。
記述精神医学にはそもそも原因論はないか、根拠のない恣意的な「遺伝による脳の病気という仮説」にしがみつく精神科医も多く、横滑り的にそれが精神医療全体の見解となり、患者の多くもそれを受け入れてしまった。
精神分析学は1950年代に既に原因論に迫っており、製薬会社や精神医療側がこれに脅威を感じ対抗措置として出されたのがDSMでもあり、原因論を理解しない者がもともと多数派ではあったが、圧倒的勝ち組となり学問的にはるかに劣る側が勝利したのである。
神経症というと心因性精神疾患ということなり、心因性ということは心的な原因ということだから脳の病気ではなく、そのようなものとして対処しなくてはいけない、ということになってしまい、脳の病気、向精神薬(抗うつ剤)を飲めば治る、という嘘と齟齬を来たしてしまい、向精神薬を売り込むことはできない。
心因ということになれば、現実のショックな出来事やストレスについての洞察・理解や、発達心理学的、精神分析学的な理解をするしかなく、これは殆どの精神科医が非常に苦手で避けたい、無視したいことである。
神経症に向精神薬では、せいぜい神経の状態をごまかすだけの悪質な対症療法と捉えるしかなく、精神科医も処方し難い。
ふた昔前の精神医療の対象はほとんどは精神分裂病であり、神経症の人が受診しに来ることは少なく、精神科医は対処法もないので、帰らせることも多く、重症な人以外を対象とする必要もする気もなかったのである。製薬会社にとっても金になる分野ではなく、利益追求・拡大の余地があるとはそうそう考えられなかったのである。
神経症ではなく○○障害という置き換えは、DSM由来でもあるが、当所DSMは精神科医に受け入れたのではなく、コンサルティングや広告会社、製薬会社が積極的に取り入れ、広めてしまったために、むしろ精神科医は従わざるを得なくなったものと思う。
当初、精神科医でDSMをあまり受け入れず、積極的に取り入れ広めたのは一部の余程の愚かな精神科医だけである。
神経症とは基本的にはうつ病や統合失調症などよりも軽症であり、病因が器質的な精神疾患のことをさす。命名の歴史はかなり古く、元々は原因がよくわからない疾患に広く使われていたようだが、精神医学的理解が進むにつれて19世紀の終わり頃には、基本的には心的な要因が原因である精神疾患のこととして理解されるようになった。
20世紀までは一般医学に伴って、精神医学も一応進歩していたのであり、甚だしい退行が起こったのは20世紀も終盤からである。
神経症は精神疾患とはいえ、従来、あまり精神医療の対象ではなく、実際の患者は多くとも受診する人は非常に少なかっかった。
これといって治療法もなく、無形のサービスにお金を払うと言う習慣も乏しく、カウンセリングや心理療法を受ける人も少なかった。
心療内科など殆どなく、精神科に行っても神経症の人は「病気とういほどではない、性格的なものだ」とか、「あまり気にするな、薬は適切ではない」などと言われて帰されることが多かったと思う。
漫然と精神安定剤など処方されて良くなりもしないのにダラダラ通わせることもあったが、ほとんどの場合、短剤で量も少なく、そもそも受診者・服薬者は少ないから、薬害が問題になることもなかった。
神経症は脳の病気ではないが、もちろん、脳の状態、神経の状態や使い方はもちろん良くない。もうちょっと正確にいうと「無意識による神経の使われ方」は良くない。
普通の人にない症状があるのではなく、誰でもある問題がたいした理由もない(と思われる)のに、甚だしく大きくかつ継続し、人間関係や日常生活などに様々な支障をきたすということでもある。
逆に脳の問題によることがわかれば、それは神経症からはもちろん、精神疾患からも除外されていた。脳梅毒、てんかんなど、これらは今日では中枢神経疾患であり精神科の対象ではない。
神経症はもちろん、心的外傷とストレスが原因であり、Sさんに流に言えば全てPTSDである。
神経症より精神症というべきかもしれないが、自律神経症状や心身症等、身体的問題もあるので、やはりそれは適切ではない。
やはりすべて心的外傷後ストレス障害、PTSDと言べきではある。PTSDと言うのもまたいろいろと語弊や問題があり、私はあまり使わなくなり、狭義のPTSD、広義のPTSDとも言っていたけど。
狭義のPTSDではなく神経症の場合、心的外傷(トラウマ)とは犯罪被害やいわゆる幼児虐待等ではなく、日常のショックな出来事とか、恥をかいたとか、失敗体験とかそういうこともでなく、主に幼児期からの本人も覚えていないか、覚えていてもよくわかっていないことである。
具体的に言えば、親や養育者の不適切な対応、過干渉、過保護、抑圧的、支配的、安心感を与えない、脅かす、などなど、広い意味では精神的虐待とは言えるが、遺棄や暴力は無いほうが普通である。こうした問題が無い人もいおらず、完全に健康な人もいないが、程度問題とも言えるが、その差は甚だしく結果的には重症な人も軽症の人ももちろん多い。
幼児期のトラウマに、大人になってからのショックな出来事や過剰なストレスが加わり、それらが重なり、複合して症状がもたらされる。適切な養育を受けていない人は適応性に乏しく、犯罪被害など病因となるようなショックな出来事にも遭いやすい。
あらゆる精神疾患は複合的PTSDとは言えるが、一般には大したことでもことで対処能力、克服能力に欠けるのは発達的問題ではあるが、これを「発達障害」というのは、少なくとも精神医学的、臨床心理学的には完全に間違った使い方、見方である。
今となっては精神科医や心理関係者こそ間違った理解しかしておらず、それが根本から何重にもなっているので、もはや誤解を解くというレベルではない。
「発達障害」蔓延は、神経症の無理解によるものでもある。神経症を理解できれば、「発達障害」の大きな誤りも明白である。
従来の精神医学では、神経症の理解が非常に狭く浅すぎたのである。もっと広く深く理解すべきであり、診断名を変える必要はなかった。
認知の歪み、認識の欠落といったことは、解離、抑圧といった精神分析の概念で説明できる。神経症を、精神分析が理解できれば、認知行動療法などが付け入る余地もなく、「発達障害」蔓延もなかったはずである。
診断なんてどうでもいいと言えばいいんだけどね。
本来、人間の分類ができないのと同じように精神疾患の分類はできない。過去や現在のさまざまな影響から、いろんな不調や問題が起こるだけなので。精神的に完全に健康な人ももちろんいない。
したがって、とりあえず障害という言い方は極力やめて「神経症の復権」は必要ではある。
私は「緊張症」と言う言葉も良く使うのであるが。医学的な言葉ではないけど、医者じゃないしね。
多くの場合、抑うつ状態とされているのは、緊張の連続の成れの果てでもあり、少なくともそうした面がを伴っている。ひどい緊張が継続し、もはや緊張さえできないほど神経は疲労し「まいってしまい」鈍くなり、今さら神経が反応できなくなってしまう。そうした意味では実際に即している。
抗うつ剤では当初は効いたかに見えて、神経に負担は増えるし、余計にウツになるのはあまりにも当たり前である。
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