私の知ってる精神科医は優しく良心的な人ばかりです

【精神医療は壮大なミルグラムの実験(アイヒマン実験)か?】

私のブログを読む人の中には、「私の知っている精神科医にはアンタのブログに書かれているような悪い人はいない」「私の知ってる精神科医は良い人ばかりだ。優しいし話もよく聞いてくれるし、薬の処方だって慎重でいきなり多剤大量処方をするわけではない」そのように反発を感じる人も多いと思う。

普通の患者が何人かの精神科医を知ってる、ということ自体、良い精神科医がいないということだと思うけどね。皆が良い精神科医なら1人かせいぜい2人に罹れば良い。あちこち転々としなければね。

もちろん、私はそういう精神科医も含めて批判しているのですが。私自身精神病が酷くなってから半世紀にもなるし、この業界も長いし、精神科病院にも国立大学の医学部にもいたことがあるので、少なからぬ精神科医は知っていますけど。

そういう人の話をよく聞いてみると、その人が良い精神科医だと思っているだけで、実際にはかなり悪質な精神科医だったりするわけですけど。
でも目先のことだけしか考えなければ、確かに優しくて良い精神科医なのかもしれない。

私の同級生も3年ほど前に、慢性薬物中毒、薬物依存症で突然死した。友人たちの同級生も医療従事者なので「薬は良くないから止めたほうが良い」と止めたようだが、もちろん本人は抵抗を示し、言うことを聞かなかった。
「今の主治医は優しくて話をよく聞いてくれるし、とても良い先生」

実際、個々の精神科医はけっこう良い人だったりするわけです。マッド・サイエンティストみたいな人もいるけど多くはない。

私も直接間接何人もの精神科医を知っており、殆ど歳上で亡くなった人も多いですが、皆さん悪い人ではないし人当たりも良く、精神科医としてはよほどマシなほうです。
ホントに悪質なヤツも知ってるけど、こっちも向こうも避けるし。

いつも悩ましく思うのは「話はよく聞いてくれるし、薬の処方に関しても慎重」な医者の方が結果的にはかえって悪質ということになるのかも?
見るからに悪質で不適な悪質精神科医なら患者も避けるし、精神医療の評価も下がり、批判もされ見向きもされないだろうけど。
外面だけは良い精神科医が増えましたね。

反精神医療派、精神医療批判派にも同様のことが言える。
そうした人のおかげで、近年は向精神薬の処方に規制がかかり、10年以上前のように何十種類もの薬を服用している人は減り、今は多くても10種類くらいの人が殆どだ。
悪質精神医療の悪質さは弱まったが、延命させ問題を遅延させているだけかもしれない。

今の精神医療は壮大な「ミルグラムの実験」みたいなものだと思う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%AE%9F%E9%A8%93

御存知の通り、科学的な心理実験と称して、検者を募り、電気ショックを与えるように指示する実験だが。
もちろん電気ショックは精神科病院でも行われているが、脳に与えるので苦痛は少なくとも危険性はもっと高い。

「アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか。それとも妻との結婚記念日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか」という疑問が提起された。

ミルグラムの
実験は、アイヒマン裁判(1961年)の翌年に、上記の疑問を検証しようと実施されたため、「アイヒマン実験」とも言われた。

誰にそんな残虐なことを指示されているのか、求められているのか?と言えば科学者と言うか精神医療全体であり、精神医療を求め来る患者であり、その家族や学校の先生だったり、社会全体であったり、科学者、医者としての良心と倫理に基づく自分自身だったりするわけである。

むしろ「医学的権威」のもとに、良心や倫理観、現実認識は解離され隠蔽意識となり、奇妙でサディスティックな義務感でやっており、「発達障害」と称して子供を精神医療につなげる教師や親にも感応現象が起こっており、その同調者(共犯者)にもなっている。

ミルグラムの「科学的実験」を途中で拒否したのは宗教家だけだったといわれている。
要するに科学的権威とは別に従うべき宗教的権威があり、それに従ったのである。

精神科医は精神医学的権威に従っているだけで、奇妙な義務感として「精神医療」すなわち薬物療法や電気ショックや時期刺激をやっているだけだろう。
「善意の陰謀」と言われるように、殆どの場合、悪意があるわけではない。
自分たちが権威だと思っているおり、皆が皆同じだし、批判勢力もほぼ皆無。

俺が30年以上前、精神医療従事者だったの昭和の頃はそうでもなかったんだけどね。
「薬で治るわけはないし」「精神科医なんて所詮何もできない哀れなものだ」といった自虐的な人が多かった。
私のような者も受けいられる状況はあったし、若い頃から下へもおかぬという扱いを受けてきたのである。

それから後、精神医療技術が進歩したわけでもないし、精神科医が有能になったわけもちろんない。
学生の頃、2カ月ほど実習で行った病院は、民間病院ではあったが金儲け主義的ではなく割に良心的な病院であったが、当時患者にも職員にも嫌われていたマッド・サイエンティスチックな精神科医が院長になっており唖然とした。
乗っ取られたようなものだろう。

数百万人のユダヤ人を絶滅収容所に輸送する責任者であったアドルフ・アイヒマンも、真摯な義務感で「職務」に励む一介の平凡で小心な公務員に過ぎなかった。
問題はそういう木っ端役人のような者が精神科医のほぼ全てであるということだろう。

私は大学1年の頃、ほぼ引きこもりとなり、精神的の塗炭の苦悩にまみれ、自室に閉じこもってのたうち回って過ごした。
大学2年になってようやく少しばかり立ち直ったのだが、そのきっかけは浪人していた友人たちも大学に入り、私と同じ大学に後を追うように入ったものも何人かいたからである。

そこで、わずかばかりの学問的意欲も取り戻し、ファシズムの研究をしようと思ったのである。友人の何人かもいくらかなりともそういった問題意識があった。
私にとって当初からファシズムとは経済や社会、政治や思想の問題であるより、無意識の社会病理、集団心理の問題であり元々は個人の病理性の問題である。

そんなことを勉強しても無駄だとも思ったが、後々の人生を考えると決して無駄ではなく、むしろまさにやるべきことであった。
そういうものです。若いうちにやったことは何事も無駄にはならない。むしろ必ず役に立ちます。
これは若い人にはぜひ言いたいことです。

結局、精神病のため本を読む根気や集中力も乏しく、たいした勉強はしないまま一応大学は卒業した。
しかし、卒業の年にこのセルフ・セラピーの基になるセラピーをとある民間療法家に受けて劇的に改善したので、何とか働けるようになり自転車店に就職した。以来40年、今日に至る。

当時読んだ本は以下のようなものです。
ノイマン「ビヒモス」、エリック・フロム「自由からの逃走」、ライヒ「ファシズムの大衆心理」、丸山真男「現代政治の思想と行動」、ハンナ・アーレント「全体主義の起源」、藤田省三「天皇制国家の支配原理」、ハーバーマス「公共性の構造転換」、戸坂 潤「日本イデオロギー論 —現代日本に於ける日本主義・ファシズム・自由主義・思想の批判」、神山茂夫「天皇制に関する理論的諸問題」

精神分析で言うところの無意識の「抵抗と防衛」と憑依・心霊現象

【精神分析で言うところの無意識の「抵抗と防衛」と憑依・心霊現象】

精神分析の言葉としての、「抵抗・防衛」については高校の倫理社会やもしかすると保健体育の教科書にも載っているし、大学の教養課程程度でも臨床心理などの科目を取っていれば勉強したはずで、知識としては基礎の基礎である。

もちろん精神科医も「抵抗・防衛」という言葉は知っているし、実際の理解が伴ってはおらず、精神分析に反感を持つ人が殆であるが、一応知識はあるはずである。

私は子供の頃から知識があったわけではないが、何となくそういう問題に気づいていた。
記憶はおぼろげだが、方しか中学2年の時に保険体育の教科書に書いてあり(他の本だったかかも知れない)、膝を叩いて「こんなすごいこと教えて良いのかっ!文部省はどうなっとる?学校教育も捨てたものではないか?」と思った。
その翌年の中学3年の時には、本屋で中公文庫のフロイトの「精神分析入門」を発見し食い入るようにむさぼり読んだのだが。もう半世紀近く前になる。

簡単に言えば、「抵抗」とは精神的問題を改善することや健康に近づくこと、良くなることをむしろ拒否する、自分にとって役立つ人を否定・非難するなどである。

「防衛」はコインの裏表みたいなもので「抵抗」と同様ではあるが、自分の良くないところ、病理性が苦悩をもたらしているのにそれを手放そうとはせず、むしろ頑なに守ろう、防衛しようとすることである。

多分に無意識にやっていることなので、それに気づく必要もあるが、それ以前に中学の頃の自分のように、いくらかなりとも自覚もあるはずなので、精神病理克服、精神の健康のためには、なかなか受け入れ難くとも洞察・理解し、克服すべき課題と考え実践する必要がある。

この「抵抗・防衛」の問題は私が提唱するセルフ・セラピーの最初にして最大の問題でもある。いくら良いこと尽くめの治療法であっても、いや、だからこそ、やっかいな問題になる。
治療法の問題ではなく、精神病理の問題であり、人間とはそういうものだとも言えるけど。

とりあえず、知識だけでも「抵抗・防衛」という概念が広まらなければ、このセルフ・セラピーの普及も難しいかもしれず、その意味で、公表するのは時期尚早かも?とも思っている。

ある患者さんのこと

40代前半だが高校入学して間もなく、ちょっとしたイジメというよりも、からかい程度のことはあったようだが、神経症的症状がひどくなり不登校になり、そのまま辞めて以来学校にも行かず仕事も殆どしていない

以来、ずっとほぼ引きこもりだが、病院とちょっとした買い物くらいは外出している。
バイトもごく短期はしたことがあるようたが続かず、高卒認定試験は難なく取れており、知的には低いという感じではない。

病院はもう20年以上も中断したことはあるが受診しており、薬では良くならない、行ってもしょうがないとは一応分かっている。不思議なことに長年薬を飲んでもけっこう大丈夫なことだ。
ときに思うことだけど人間ってけっこう頑丈だ。もちろん人によるし、肝機能の解毒作用が強いのかもしれない。

さすがに副作用や弊害はだんだん大きくなり本人も気づいてはいるようで、薬もだいぶ減らしてはいるが、変更した薬の副作用で太ったことを、本人は一番それを気にしており、今まで外に出ていた買い物にも行かなくなった。

よくあることだが、引きこもりの人に限らず、パニック障害や社会不安障害だとして外出できないという人も、病院だけは欠かさず行く人が多い。
普通はむしろ病院に行くのは気が重い、億劫だと思う人が多いはずで、いわゆる病院嫌いの人も少なくないけど。

行ってもしょうがいないことはわかりきっているのに。
これもまた、「抵抗・防衛」の表れである。一見、治療に積極的なようでむしろ逆になっている。良くならないことを望むために病院に行く。

その人の場合、自分は軽度の方だし、他の患者に気を使うのがバカバカしいのでデイケアは辞めたという。もっとバカバカしいのは、受診服薬のはずで、何にしても自分次第で利用の使用もあるかと思うけど。

なぜ「抵抗・防衛」があるのか?その要因と背景は?

親が子供を病気にするだけではなく、お前は私(親)の養育や接し方が悪いと思ってはいけない、病気のままでいなくてはいけない、良くなってはいけない、と言ったメッセージが強く含まれており、無意識にという無自覚の対応洗脳というか催眠になっている。

無自覚だからこそ対象化、吟味されず、罪悪感もなく、抑制や歯止めも聞かないため強力な影響力を持ちやすい。
それもまた親の「抵抗・防衛」という面があるが。

どんな人でも「抵抗・防衛」はあるが、そうした傾向が強い人ほど強い、もしくは大きく、それほどでもない人もいる。

その患者さんは当所に来て治療を受けるときに「私は自分が良くなりたくない、という気もあると思う」と言う。
通俗的とは言えメンタルヘルスに関するような本は随分読んでおり、それなりに知識はあるようだ。

「精神分析の用語では『抵抗・防衛』と言うけど、とりあえずそれが分かっているだけでも良い。そういう葛藤があるのも当然だが、あせらず徐々に克服していけば良い」などと言ったのだが…

実は意味が違っていることに気づいた。

彼女の父親はもう引退しているが、誰もが知っている有名企業の元重役で、退職金や年金も多くて裕福である。障害年金などもらわなくても金銭的には問題なく、仕事もしたくないし、このまま引きこもりでもそんなに苦痛でもなく、このままやっていければ良い、ということだった。

先生は有能で治療も良いことは認めるけど、私はそんなに良くなりたいわけではないし、治療に積極的に取組む気はない、という意味である。
要するに「抵抗・防衛」を克服すべき問題とは考えず、自分の病理や現状を正当化することを考えている。

彼女の弟も高給取りである。親が死んだら弟が面倒を見てくれると言うが、結婚して子供もできたらどうか?嫁さんだってそうそう納得しないのではないか?と思うのだが。

その人の父親は先程も書いたように、大した学歴もなかったのに某有名企業で出世した人だが…
働き盛りの頃に、さんざん部下にパワハラをやっており、それでむしろ「業績を上げた」人らしい。

今なら部下の多くに訴えられて裁判沙汰の嵐になるはずだが、それ以前に、辞めざるを得なくなるか自粛するだろうけど。
当時だから許された、というわけではないが、むしろ出世の踏み台にしたようだ。

当然、部下からは恨みをかう。そのパワハラの嵐がひどかった頃が、彼女が発症というより不登校・引きこもりになった時期と重なっているようだ。
その後も恨みつらみは当然続いたはずで、今でも続いてるかと思う。

話を聞いても、彼女には不登校になる特段の理由や要因があったわけではなく、幼児期からの親の養育、対応も問題ありだろうが、心理的虐待と言うほどでもなさそうで、そんなに重症になる要因になるトラウマがあったとは思えない。

精神疾患としては軽度でも、今となっては不登校になり、そのまま引きこもりになったので、社会生活の経験はあまりに乏しいため、精神病理的には軽症でも、「社会的重症化、障害者化」したような感じである。
本人もそんなに自分が重症とは思えないようであるが、引きこもりから抜け出せない理由も良くわかっておらず、あまり自覚がない。
病院と買い物は特に抵抗もなく行ってるわけだし。

親がパワハラなどやっていれば、子供が知らなくても、そのこと自体が無意識のトラウマになる。実は、薄々とは気づいているケースももちろん多い。

生霊を飛ばされた?心霊現象、憑依現象

精神病理学的にはこのような言葉を使うべきではないが、いわゆる「生霊を飛ばされ憑依した」というやつである。
本人がそう言ってたわけではなく、ハッキリした認識もないが、それを納得しているようでもある。
父親が罪深いことをしたので自分が犠牲になるのはやむを得ない、というように。

オカルト的なことは私も嫌いだが、そのようにしか考えられない現象は確かにある。

心霊現象とされるようなオカルト的なことも、それなりの理由や根拠、背景があり、それを無視し、荒唐無稽なことと考えてはむしろ精神疾患は理解できず対処もできない。
「脳の病気」という誤解、信仰もとけず無駄なこと有害なことをやり続けてしまう。

心霊現象といったことも精神分析学的には無意識の心理として考えるべきで、同一の現象を別な見方をしているとも言える。
もちろん精神分析の方がはるかに学問的広がりも発展性もあり、臨床的、実践的にも有用だからこそ、私も心霊療法家ではなく(広義の)精神分析療法家となったのだが。
もっともオカルト的なことは嫌いだし、霊だの何だのといったことも嫌いだし、というよりよくわからないので避けていた。

やはり人の恨みをかうようなことはすべきではない。自分には返ってこなくても、自分の愛する者に影響してしまう。

使ってはいけない言葉:ムンテラする(Mund Therapie 問診)

【使ってはいけない言葉:「ムンテラする」(Mund Therapie 問診)】

ムンテラとは一般的には「問診」のことであり、「病状説明」という意味で使われることも多いが、「問診」のほうが広い意味なのでそう考えたほうが良いだろう。

元はドイツ語でムント・テラピー(Mund Therapie)の略で、Mund「口」+Therapie「セラピー、治療」だから、口述による治療といった意味のはずなので、使ってはいけないどころか、本来は大いに使うべきであり、やるべきことである。実際に上手く出来るかが問題だが。

しかし、なぜ使ってはいけないと言わざるを得ないのか?

昔、30年近く前にリハビリ系の大学教師をしていた時のこと。
(その頃は医学部ではなく医療技術短期大学部)

臨床実習(インターン)から戻ってきた学生が症例発表をしている時、「ムンテラする」という言葉を得意げに使ったので、叱責したことがある。

使ってはいけないし、やってはいけないことだ、考えるのもいけないと。
俺は優しいし滅多に怒ったりなんかしないが。

専門用語をよく分かっていないのに得意げに使うのは、どの分野でも大学の1~2年位の初学者にはよくあることだ。専門用語は定義が必要であり、使うなら誰にでもわかりやすく説明できなくてはならない。

この場合は、専門用語ではなく隠語だが。飲み屋や寿司屋で客が「おあいそ」などというのは皮肉だ。ピストルのことを警察はハジキと言い、ヤクザはチャカと言うのはドラマの中だけ?
サ変名詞では無いのに名詞に「する」をくっつけることはよくあるし、「〇〇る」などと言うのは便利なので特に悪いとは思わないし、私も割に多用する。

私が叱責したのは、その学生は明らかに「上手く言いくるめる」「適当に言ってごまかす」「事実とは違うことで患者を納得させる」「厄介な患者を言葉で支配する」といった意味で使っており、それが良くないことだという認識もなく、むしろ得意げでさえあったからである。

大学ではドイツ語はやらないし、教師もドイツ語は知らないし使わない。

おそらく実習先の指導者が使うのを真似したのだろうけど、その指導者は他のリハビリ関係者の真似をしたのかも知れないが、元は医者の真似だろう。日本の医療の中で歪められて使われるようになったのだと思う。

もちろん言葉はわかる、伝えるために使うので、問診なら問診、病状説明なら説明と言えば良いわけだが、あえてドイツ語を使うのは「俺はドイツ語も知ってるんだぞ」と言う優越感もあるかもしれないが、ドイツ語だと患者にはわからないからである。
わかってしまえば意図が見透かされ、悪行がバレてしまうのでそれを隠すためだろう。

実際にムンテラと言う言葉を使うかはともかくとして、そうした正確には伝わらない、あるいは誤解に満ちた、悪意が隠されているような、歪んだ言葉を駆使して「診療」するのは精神科医の得意分野である。

医者になった当初はそうでもないのかもしれないが、精神科医になって何年もしないうちにたいていの精神科医は「ムンテラ」の達人になる。

専門的な臨床能力はちっともつかないどころか退化して、精神療法どころか診断能力は甚だしく未熟なまま、というより誤解だらけのまま強化してしまう。
医者のレベルの差でもあればまだ良いのだが、どの精神科医も同じようなもので、どこの精神科病院や心療内科に行ってもちっとも埒は明かない。

患者が話しても結局の所、うんざりさせられるだけで患者もやる気がなくなり、病気の人というよりも障害者化する。それ以前に、精神医療、ひいては精神療法が無駄どころか反治療的なもの、有害なものとなってしまう。

医者は患者を上手く納得させたと思っていても、実際には納得していないことが殆どである。精神病患者だけでなく、認知症患者であっても。
逆に事実に基づいてわかりやすく言えば、理解に乏しいように見える患者でも割に納得してくれる。

肝心の、病気の原因や要因やその背景など、実際に病気に関することで治療に必要な情報は精神科医にとっては不要なのだろう。
要は、薬の副作用だろうが、(常用量)離脱症状、も後遺症も何でも元々の患者の脳の病気のせいにしてしに、それに対してまた薬を処方するということをやっているだけだ。

結局の所、話しても無駄だ、医者には話は通じない、ということになり、ひどい「医療」をやっていても、患者から文句も出ず、訴えられるなどの問題にもならない。

患者もそれで納得してしまうか、そうでなければ、話をするのも諦めてしまう。
結局の所、疾病について、自分についての洞察・理解も進まないどころか、隠蔽しごまかしてしまう。

精神科の診療は決して希望を与えず、絶望もしくは諦念を与える。多くの場合それが患者にも自覚されず当たり前になってしまい、悪質精神医療の擁護者、支持者にさえなっている。
そういう人の声はでかくてまかり通ってしまうが、他の患者にも社会にも有害だ。

ハッキリ言って現状の精神科医の仕事は素人でも少し学習すればできるし、何なら簡単なマークシートを読み込めるコンピューターと薬の自販機でも十分間に合う。その方が良いかも知れない。
標準的な処方や、薬の組み合わせの禁忌などは正確にデータとして入力しておけば。

医者はちっとも話を聞いてくれない。5分どころか3分も診療しないと不満を持つ患者も多いが、時間がたっぷりあったとして、話を聞くとしても世間話程度にしかならない。
世間話ならまだマシだし有用性もあるかもしれないが。

知らない人が多いかと思うけど、精神科医はカウンセリングや心理療法の学習やトレーニングをしていないのが普通で、そのようなことをやってるつもりの人も多いが殆どの人は不得手でやる気もない。

一般科でも検査や画像などのデータや所見を元に、自分の知識と照らし合わせて診療するだけで、患者の話をよく聞いて理解しようとしない医者が多い、というか殆どかもしれない。

先日も喉の違和感があり、紹介状を書いてもらって耳鼻咽喉科に行ったが、鼻のこと(アレルギーはある)のでそのことばかりで、どういう違和感か?などとは聞きもしない。

結局、効きもしない薬を処方するのだが、前に服用したことがあるけど効果は無かったとは言えなかった。

内視鏡で見たのに喉のことには全く触れないので、こちらから聞くと「何でもない、キレイなものです」と言うだけ。

喉頭がんの心配などはなさそうで、とりあえず安心したが、それでは問題は解決せず、もしかして食道の方に何か問題があるかと、不安は解消せず気になってしまう。

基本縦割りだから、仮に食道などに問題があっても、その医者は何の関係もないことになる。

というわけで、ムンテラとは本来は大いに使うべき言葉だが、とりあえず禁句にした方が良さそうだ、という話です。

「発達障害」developmental disordersという誤訳

【「発達障害」developmental disordersという誤訳】

「障害者」「障がい者」「障碍者」といった表記にこだわる人が少なからずいるようですけど。個人的には正直あまり気にしていません。
元々リハビリ系なので「身体障害の作業療法」「精神障害の…」、「発達障害の…」といった言葉に慣れており違和感がなかった。
障碍者という表記が一般的になったら、もちろんそれを使いますけど。

しかし、治療法を身に着けて、実践するようになってからは、「精神障害」という言葉はあまりにも違和感があり、使わなくなりました。
必ずしも適切ではないかと思いつつ「精神疾患」は多用してますが。
理由はおわかり頂けるかと思います。

聴覚障害のことを「つ○ぼ」、聾唖のことを「お○」、視覚障害のことを「めく○」脚が不自由な人のことを「びっ○」と言うのも当然止めたほうが良いと思いますが、要は使う人と受け取る側の問題で、そもそもはそんなに悪い言葉ではなかった気もします。

液体や気体などを扱う機器の領域では、盲栓という言葉が多用されており、私のように古い人間は、ついついメク○センと言ってしまうが、今はモウセンと言うのだろうか?漢字だとで同じだし、読みだけ変えてもどうなんだろう?という気はする。

言葉はそれを使う人の意図や理解、考えや感情などの問題であって、差別や蔑視などが悪いのであって、多くの場合、言葉が悪いわけではないような…

もちろん、差別感や蔑視などを伴って使うことが多い言葉や、そもそもそうした意図があって使われるようになった言葉は、受け取る側の多くが傷ついたり不快になる言葉は止めるなり変えるすることが必要だと思います。実害を減らすことにもなる。

知人に、外国人を前にすると、やたらと「ke唐」とか「アme公」なんて連発する爺さんがいましたが。相手はもちろんわからない。医者で大学教授だし英語もできるし、面白くて良い人でしたけど。戦中派だからか趣味悪いね。

「キチ○イ」と言うのも元々そんなに悪い言い方でも無かった気がします。要するに「気が違う」ということで差別的でもないような?
「気」という言葉は明確ではなく、わかったような使われ方をするので、事実の理解はつながらず、あまり良い言葉ではないと思いますけど。

あまりにも問題が多い「発達障害」という言葉ですが…

ところで問題の「発達障害」ですが、これは昨今一般的に広まったのとは違う意味で使っていました。
要するに精神疾患ではなく、主に遺伝や先天的もしくは周産期の問題による(主に)中枢疾患など、具体的には、脳性麻痺、精神遅滞、知的障害、自閉症、ダウン症など。
英語ならdevelopmental disability だと思いますが、英語は不得手なのであしからず。

DDと言っても、developmental disabilityを発達障害と訳すのは一応可としても、developmental disorders を発達障害と言うのは誤訳なので改訂されるようです。

逆に「発達障害」を英語にしてもdevelopmental disordersにはなりません。disorderの日本語訳は無秩序、混乱、不調、不具合であり障害とはならず、障害は英語だと、機能障害(impairment)、能力障害(disability)、社会的不利(handicap)なので。
そのため、2023年を目処に正式な訳語が決められ改訂されるようです。

特に精神発達上の問題を「発達障害」と言うのは完全な誤りで、様々な害があり、精神医療はこの誤りに陥り、拡大させています。
AD/HD、広汎性発達障害、アスペルガー症候群、学習障害などと称する場合に使われている「発達障害」のことですが。

この場合は「善意の陰謀」というより多分に無自覚に利用され、疾患喧伝、過剰診断、向精神薬害をもたらすばかりでなく、学校の教師や親や当人にも様々な問題、弊害を生じさせる言葉でもあります。
そうしたことは他でも述べたし、ここではこれ以上論じませんが。

developmental disorderが、どういう訳語になるのかはわかりませんが、社会不安障害、双極性障害、気分変調性障害などの誤訳は○○症になるようです。
心身症を身体表現性障害などと言うようになったので、むしろ逆戻りですけど、その方が良いと思います。

こうした誤訳はDSMと共に広がり定着したようですが、当初はそんなに悪い言い方ではないように思いました。
しかし、専門家とされる精神科医や、患者さん、一般の方の受け取り方や使い方は我々とは違ったようで、大いに問題アリの言葉になりました。

誤訳を訂正するのは良いことですが、精神分裂病が統合失調症になった時と同様に、名称を変えても精神科医の誤解や無理解、有害な精神医療は改善しそうにないので、悲観的にならざるをえませんが、どちらかと言えばマシになるのでしょうか?
精神科医や臨床心理士よりも、一般の人に期待したいところです。

本末転倒、倒錯した精神医学研究「うつ病の発症、HHV-6が持つ遺伝子が関与か:慈恵医大」

本末転倒、倒錯した精神医学研究「うつ病の発症、HHV-6が持つ遺伝子が関与か:慈恵医大」

またまたこういうのが出てきました。
少し前の2020年6月頃の話題ですけど。

うつ病の発症、HHV-6が持つ遺伝子が関与か:慈恵医大
https://www.carenet.com/news/general/carenet/50201

うつ病の原因遺伝子の発見
-ヒトヘルペスウイルス 6(HHV-6)の潜伏感染はストレス応答を亢進させることで、うつ病のリスクを著しく上昇させる-
http://jikeivirus.jp/wp-content/uploads/2020/06/2b5442c6724af0b997f15463558a52c9.pdf

当然のこと、以下のような批判もあります。

東京慈恵医大による「うつ病の原因遺伝子の発見」の矛盾
https://matsumoto25.net/2020/06/25/sith1/

前にも書いたけど、いつものようにこんなのが現れては消えるでしょう。
原因と結果が倒錯し、本末転倒しているからこんなことになる。
本質を理解しようともせず、それ以前に事実を捻じ曲げたり否認したり。
なぜ、そんなに認知の歪みや欠落が甚だしいのでしょうか。
精神医学には既に優れた先人の知恵もあるのに、それは全く無視。

精神医学の研究と言うのは皆の普遍的な利益や、健康と幸福を追求するものではなく、殆どはある種の人や集団や組織の利益と結びつくことだけしかやりません。
簡単に言えば金と名誉。

では何をどのように研究したら良いのか?
もちろん、臨床的な観察、洞察や理解が基本ですが、理解が優れた研究法の一つは、以下でも提示しています。

精神医学の研究法のご提案:精神科医や臨床心理士の皆様へ
(うつ病、心的外傷後ストレス障害PTSD)
https://self-therapy.info/2017/01/17/pc/


このような物質的な「精神医学研究」は今まで繰り返してきた通り、そのまま立ち消えになるのでしょうけど。
もしかすると、何らかの「新薬」の開発などに結びつく可能性はあるのかもしれませんが、結果もわかりきっている。
「効果」はあっても乏しく、弊害や危険性は高い。「効果」と言っても現行の抗うつ剤を上回るものではないはずで、もちろん良くなることとは違います。
「効果」があれば弊害や危険性もそれ以上に高い。

それにしても「うつ病の原因がわかった」なんて今までも散々言われてきたし、二十年以上も前から「うつ病は薬で治る」と言っていたではないか。嘘つきばかり。
「嘘つきは精神科医の始まり」なんて標語も流行ったな。
♪誰が言ったかしらないが♪俺かな?
ただの喧伝にしてもウソばかりではいけないが、なぜか公共広告機構ACジャパンに訴えられることはない。

脳科学やら、生物学的、化学的、物理的などフィジカルな観点から、物的還元主義で研究を進めても、それは進歩ではあるのかもしれませんが、どこまで行っても平行線で精神疾患に近づかず、理解もできず成果も得られません。

こうした研究の結果、何らかの「治療法」に結びついたとしても、ロボトミー(精神外科)、電気ショックや磁気刺激、薬物などなど「効果」はあっても良くなるものではなく、弊害やリスクは極めて大きいものになるのはわかりきったことです。

そうした誤りを繰り返してきたのが、精神医療の歴史ですが反省もない。
「歴史は繰り返す。但し二度目は茶番として」

壮大な無駄とも言えますが、それで経済が廻っていくのでしょう。
「精神科医、功成りて万骨枯る」
でもいつまで続くのかな?

そんなことはない、科学技術の進歩に限界はない、いつかは「うつ病」の生物学的な原因と治療法が発見できる、とお思いでしょうか?

もちろん我々が既に行っている治療の合理性を、物的な事象を基礎に確認したり証明はできるかもしれませんが、それには及びません。弊害もリスクもなくて、結果が得られればそれで良いとも言えますが、原理的にも優れた治療であることは明らかなので理解すれば良いだけです。

でも、もしかしたらこれらの生物学的、物的「精神医学研究」によって、有効な治療法が発見、もしくは発明されることがあるのかもしれません。絶対にありえないとまでは言えないと思っています。

しかし、それができる頃には既に生身の人間か、アンドロイドか、ゾンビか、AIロボットだか何だかも区別が無くなっているでしょう。

そうした世界を皆さんは望むのでしょうか?
それ以前に、世界は存続できるのでしょうか?
私は、SFは好きでもなく苦手なので、考える気もありません。

それはともかく、
既に精神医学にはフロイト先生を始め、治療に直結するものではなくとも優れた先人の知恵もあるのに全く無視、否認。
完全なんてありえないけど、とても優れた良い治療法もあるのにね。
病院に行ってもそれは得られませんが、これを読んだ人はその恩恵を享受できるかもしれません。

日本精神医学会の学会誌・学術誌「精神神経学雑誌」、MEDLINE(米国国立医学図書館)から収録拒否

【日本精神医学会の学会誌・学術誌である「精神神経学雑誌」、MEDLINE(米国国立医学図書館)から収録拒否】

別に関心もないし知らなかったのだが…

伝統ある?(確か、大正時代からある)日本最大の精神医学・精神医療の学会、日本精神医学会の学会誌・学術誌である「精神神経学雑誌」は、データシステムPubMedを通してMEDLINE(米国国立医学図書館)に収録とを拒否されていたらしい。
国際的には学術誌とて見做されないということであり、医学雑誌、学術誌としては事実上の廃刊である。

もちろん私は日本精神医学会なんかには入っていないし「精神神経学雑誌」は数年前に一度みたことがあるが、20年以上殆ど手にしていない。

昔に比べてもあまりにもバカバカしい内容になったし、厚さ自体もだんだん薄くなっていたことは感じていた。学術総会も何年か前に横浜で開催された時には見に行ったが、あまりの下らなさを確認しただけだった。
その時のことは前にも書いた。

精神科医は随分増えたし、会員数はかなり今でも多いはずだけど、もはや学会なんて言えるシロモノではなく、学術誌の体裁をなしていない。

当たり前である。
精神科医の依拠するものは、精神疾患の事実ではなく製薬会社の宣伝文句だし。結局、いくら口ばかり上手い連中でも書くこと自体が無くなる。さすがに論文なら見え透いたウソばかりは書けないし。
おそらく査読はあっても無いようなもの、投稿自体も僅かしか無く、箸にも棒にもかからないのが殆どだろう。
んなことは、読まなくてもわかる。

他の精神医学関連学会も推して知るべしである。「うつ病」学会など会員数も多いはずだが混迷あるのみ。

「精神科治療学」「臨床精神医学」やら商業誌も風前の灯だろう。見てないけど。
岩崎学術出版社とか今でもあるようだけど、続いているのが不思議だ。精神分析学会もすっかり小さくなって無くなりそうなのに。

みすず書房はかつては精神医学関係の良書を随分出していたのだが、精神医学関係の本は殆ど出さなくなった。翻訳に値するものさえ殆どなくなっただろうけど、それでも復刻版は出している。
創業以来初めてのベストセラー、ピケティの「21世紀の資本」で随分儲かったようで、売れなくても出したい本を出せるようになったはずだが。

いかなる精神医学書を積み上げたところで、私の書いたマニュアルのほうが遥かに価値はあると思うよ。あまり大きな声じゃ言えないけど、ここだけの話。信じる信じないは人の勝手だが。

こうした状況は日本だけではないはずで、掲載を拒否した米国側だってロクなもんじゃないことはわかりきっている。英語読めないけど。
昔は読めたんたけどやっぱりやってないとダメだね。

竹内結子さん、三浦春馬さん、芦名星さん、藤木孝さん、木村花など有名人の自殺

【竹内結子さん、三浦春馬さん、芦名星さん、藤木孝さん、木村花など有名人の自殺】

竹内結子さんという女優さんが自殺で亡くなられたそうですが。

三浦春馬さん、芦名星さん、藤木孝さんなども最近自殺しています。濱崎麻莉亜さんというネット番組のタレントも自殺したばかりです。女子プロレスラーの木村花さんも自殺しましたが、ネット上のバッシングが原因とも言われています。

私はテレビは見ないし芸能人にも関心はないのでこれらの人については知らないし、関心もありません。歌手の頃の藤木孝さんは少し知ってた。

もう少し前になりますが、西岡恭蔵さん、加藤和彦さん、井上大輔さん、加瀬邦彦さんも自殺しました。

グループサウンズやフォークは好きだったので、これらの人はけっこうよく知っていました。

岡田有希子さんという有名なアイドル歌手か1986年に自殺していますが、彼女のことも私は知りませんでした。ちょうど精神病院に就職したときだったのでニュースはよく憶えていますが。あまり人気はななかったようですが、岡村有希子さんというたった一字違いのアイドル歌手は知っていました。

この曲が印象的だったからで…、この人は死んでませんよ。念の為。今でもローカルで活躍なさっているようです。

ちょっと音痴だしリズム感も良くない。これじゃ売れないな。バンドのリズムもなぜか乱れている。当時は私も音感もリズム感もが悪すぎたのでわからなかったけど、爺になっても感覚は鍛えれば良くなるのだろうか。

貧乏タレントの上原美優さんも自殺しましたが、彼女のことも知らなかったのですが、たまたま本屋で「貧乏タレント」という本が積み上げてあるのを見たので、こういう人もいるのかと思って手に取り、少しだけななめ読みした時に、この人は危ないかもしれない、何が危ないかはわからないけど、と思っていた矢先だったのでちょっと驚きました。

「ウェルテル効果」だったか、岡田有希子さんが自殺した年は、前後の年に比べて、青少年の自殺が3割増加」し、後追い自殺は186人?とも言われています。
1998年、X JAPANのhideさんの自殺のときもそれが問題になりました。

後追い自殺と言っても、影響があるにしても彼女が自殺したからファンなども自殺したわけではなく、岡田有希子さんがそんな罪作りなことをしたわけではもちろんありません。

これらの有名人が自殺するとマスコミは安易に原因を探ろうとして、何か目ぼしいところをみつけると安易に結びつけますが…、決して本質的なことにはたどりつかず、触れようともしません。
自殺の主な原因は幼児期からのトラウマ、あるいはレイプなどのショックな出来事のトラウマ、といった過去の影響です。

ウェルテル効果と言ってもせいぜいきっかけで、誘因であっても原因ではなく、背中を押すと言ってもどつくようなことではなく、せいぜい指で押したくらいの影響しか無いでしょう。

最近はこれらの有名人が自殺すると、ネットではニュースや記事の下には免罪符のように「いのちの電話」のリンクを付け加えることになっているようですが…
自殺願望がある人が「いのちの電話」に電話するのは良いのかも知れませんが、「いのちの電話」はずっと前から忙しくなかなか電話がつながらず、最近では絶望的につながらないようです。

それはまだ良いとして、問題は精神科医につなげるということです。

「自殺するような人は何からの精神疾患に罹っている」これは実際にそうでしょうけど…
これらの有名人のうち、どのくらいの人が精神科を受診していたのかはよくわかりませんが、少なくとも半分以上は受診していたはずです。

自殺者の殆どは精神科を受診しており、精神科医といえども全く役に立たないことが身を持って知ったことが、絶望に拍車をかけているはずです。
だとすれば誰が役に立つのか?

加藤和彦さんは「最近、良い精神科医に出会った」と知人に笑って話していたそうですが。昔からの盟友の北山修は精神科医で「完全に不意を突かれた」と言っていましたが、それはむしろやむを得ないことだとは思います。普段から精神科医としては信用が無かったのかも知れませんが、友達ならいろいろ抵抗もあり、相談する対象にもならないでしょう。

もちろん、精神科医と言っても精神疾患が治せるわけではありません。もちろん、自殺を防ぐ方法を知っているわけではなく、薬物なども自殺を防ぐ効果はありません。
もちろんセルフ・セラピーは役に立ちますが、彼らはもちろん知らなし、もし知っても否定・否認するはずです。精神疾患に対する正しく理解がないからです。

精神科医は自殺を防ぐどころか、賦活化症候群(アクチベーション・シンドローム)といって、向精神薬(特に新型抗うつ剤 SSRI)の作用により自殺を増やしてしまいました。

死にたいと思ってもいない人が、電車に飛び込んだり、ルンルン気分でマンションから飛び降りたり、首を吊ったりして自殺してしまう。
殺人などの事件も引き起こし、アメリカでは銃乱射事件も頻発しました。
私は新型抗うつ剤 SSRIが認可される前から、この問題は予測しており、事実そのとおりになりました。

しかし、長らく精神科医は無知もあってこの問題を認めようとせず、我々がさんざんネットに書き込んだりして啓蒙したおかげで、最近になってようやく認めるようになり、精神科医もビビリだしたのと、薬の規制もできたので、向精神薬、を控えるようになってきました。

特に危険なパキシルの売上は激減、既に多くの人が自殺してしまった(二度自殺することはできない)、これが2012年から少しずつ自殺が減った主な要因です。
今は抗うつ剤など同じ種類の薬は2種類まで、などと規制ができて、多剤大量処方は儲からず、患者もだいぶお金を払う必要があるので、一頃のように何十種類もの薬を服用している人は少なく、殆どの人は10種類以内です。

「精神医療はマッチポンプ、ノズルの先からガソリンが」
「向精神薬は毒まんじゅう」
「自殺対策は精神科医抜きで」
「精神科医が自殺対策を聞くのは、泥棒に防犯を聞くようなもの」
などなどの標語が作られました。

今は自殺よりも薬物中毒死の方がはるかに大きな問題です。10年、20年と向精神薬を服用している人が増えたので。

それならばカウンセリング・センターなどの施設を作ってはどうでしょうか?そういうのが無いので、「いのちの電話」なんかもボランティアでやってるわけで。
専業職員が行う有料と、無料のボランティアが行うのと、二本立てにするのが良いかもしれません。予算のこともあるので。心理カウンセラーも淘汰が必要です。
と、いつものように批判ばかりでなく建設的な提案をしてみたり。

素人が行っても精神科医よりはマシでしょう。覚悟を決めて取り組んだら良い。
しかし現行の臨床心理士やら心理カウンセラーなどは不適格です。彼らの役割は、精神科病院や心療内科などの医療機関や精神科医につなげるという悪しき循環論法なので。
「いのちの電話」では医療機関など勧めてはいないはずです。

精神科医も臨床心理士やら心理カウンセラーも、病院も相談機関もリセットが必要です。
もちろん、このセルフ・セラピーは自殺予防にも役立ちます。