精神分析で言うところの無意識の「抵抗と防衛」と憑依・心霊現象

【精神分析で言うところの無意識の「抵抗と防衛」と憑依・心霊現象】

精神分析の言葉としての、「抵抗・防衛」については高校の倫理社会やもしかすると保健体育の教科書にも載っているし、大学の教養課程程度でも臨床心理などの科目を取っていれば勉強したはずで、知識としては基礎の基礎である。

もちろん精神科医も「抵抗・防衛」という言葉は知っているし、実際の理解が伴ってはおらず、精神分析に反感を持つ人が殆であるが、一応知識はあるはずである。

私は子供の頃から知識があったわけではないが、何となくそういう問題に気づいていた。
記憶はおぼろげだが、方しか中学2年の時に保険体育の教科書に書いてあり(他の本だったかかも知れない)、膝を叩いて「こんなすごいこと教えて良いのかっ!文部省はどうなっとる?学校教育も捨てたものではないか?」と思った。
その翌年の中学3年の時には、本屋で中公文庫のフロイトの「精神分析入門」を発見し食い入るようにむさぼり読んだのだが。もう半世紀近く前になる。

簡単に言えば、「抵抗」とは精神的問題を改善することや健康に近づくこと、良くなることをむしろ拒否する、自分にとって役立つ人を否定・非難するなどである。

「防衛」はコインの裏表みたいなもので「抵抗」と同様ではあるが、自分の良くないところ、病理性が苦悩をもたらしているのにそれを手放そうとはせず、むしろ頑なに守ろう、防衛しようとすることである。

多分に無意識にやっていることなので、それに気づく必要もあるが、それ以前に中学の頃の自分のように、いくらかなりとも自覚もあるはずなので、精神病理克服、精神の健康のためには、なかなか受け入れ難くとも洞察・理解し、克服すべき課題と考え実践する必要がある。

この「抵抗・防衛」の問題は私が提唱するセルフ・セラピーの最初にして最大の問題でもある。いくら良いこと尽くめの治療法であっても、いや、だからこそ、やっかいな問題になる。
治療法の問題ではなく、精神病理の問題であり、人間とはそういうものだとも言えるけど。

とりあえず、知識だけでも「抵抗・防衛」という概念が広まらなければ、このセルフ・セラピーの普及も難しいかもしれず、その意味で、公表するのは時期尚早かも?とも思っている。

ある患者さんのこと

40代前半だが高校入学して間もなく、ちょっとしたイジメというよりも、からかい程度のことはあったようだが、神経症的症状がひどくなり不登校になり、そのまま辞めて以来学校にも行かず仕事も殆どしていない

以来、ずっとほぼ引きこもりだが、病院とちょっとした買い物くらいは外出している。
バイトもごく短期はしたことがあるようたが続かず、高卒認定試験は難なく取れており、知的には低いという感じではない。

病院はもう20年以上も中断したことはあるが受診しており、薬では良くならない、行ってもしょうがないとは一応分かっている。不思議なことに長年薬を飲んでもけっこう大丈夫なことだ。
ときに思うことだけど人間ってけっこう頑丈だ。もちろん人によるし、肝機能の解毒作用が強いのかもしれない。

さすがに副作用や弊害はだんだん大きくなり本人も気づいてはいるようで、薬もだいぶ減らしてはいるが、変更した薬の副作用で太ったことを、本人は一番それを気にしており、今まで外に出ていた買い物にも行かなくなった。

よくあることだが、引きこもりの人に限らず、パニック障害や社会不安障害だとして外出できないという人も、病院だけは欠かさず行く人が多い。
普通はむしろ病院に行くのは気が重い、億劫だと思う人が多いはずで、いわゆる病院嫌いの人も少なくないけど。

行ってもしょうがいないことはわかりきっているのに。
これもまた、「抵抗・防衛」の表れである。一見、治療に積極的なようでむしろ逆になっている。良くならないことを望むために病院に行く。

その人の場合、自分は軽度の方だし、他の患者に気を使うのがバカバカしいのでデイケアは辞めたという。もっとバカバカしいのは、受診服薬のはずで、何にしても自分次第で利用の使用もあるかと思うけど。

なぜ「抵抗・防衛」があるのか?その要因と背景は?

親が子供を病気にするだけではなく、お前は私(親)の養育や接し方が悪いと思ってはいけない、病気のままでいなくてはいけない、良くなってはいけない、と言ったメッセージが強く含まれており、無意識にという無自覚の対応洗脳というか催眠になっている。

無自覚だからこそ対象化、吟味されず、罪悪感もなく、抑制や歯止めも聞かないため強力な影響力を持ちやすい。
それもまた親の「抵抗・防衛」という面があるが。

どんな人でも「抵抗・防衛」はあるが、そうした傾向が強い人ほど強い、もしくは大きく、それほどでもない人もいる。

その患者さんは当所に来て治療を受けるときに「私は自分が良くなりたくない、という気もあると思う」と言う。
通俗的とは言えメンタルヘルスに関するような本は随分読んでおり、それなりに知識はあるようだ。

「精神分析の用語では『抵抗・防衛』と言うけど、とりあえずそれが分かっているだけでも良い。そういう葛藤があるのも当然だが、あせらず徐々に克服していけば良い」などと言ったのだが…

実は意味が違っていることに気づいた。

彼女の父親はもう引退しているが、誰もが知っている有名企業の元重役で、退職金や年金も多くて裕福である。障害年金などもらわなくても金銭的には問題なく、仕事もしたくないし、このまま引きこもりでもそんなに苦痛でもなく、このままやっていければ良い、ということだった。

先生は有能で治療も良いことは認めるけど、私はそんなに良くなりたいわけではないし、治療に積極的に取組む気はない、という意味である。
要するに「抵抗・防衛」を克服すべき問題とは考えず、自分の病理や現状を正当化することを考えている。

彼女の弟も高給取りである。親が死んだら弟が面倒を見てくれると言うが、結婚して子供もできたらどうか?嫁さんだってそうそう納得しないのではないか?と思うのだが。

その人の父親は先程も書いたように、大した学歴もなかったのに某有名企業で出世した人だが…
働き盛りの頃に、さんざん部下にパワハラをやっており、それでむしろ「業績を上げた」人らしい。

今なら部下の多くに訴えられて裁判沙汰の嵐になるはずだが、それ以前に、辞めざるを得なくなるか自粛するだろうけど。
当時だから許された、というわけではないが、むしろ出世の踏み台にしたようだ。

当然、部下からは恨みをかう。そのパワハラの嵐がひどかった頃が、彼女が発症というより不登校・引きこもりになった時期と重なっているようだ。
その後も恨みつらみは当然続いたはずで、今でも続いてるかと思う。

話を聞いても、彼女には不登校になる特段の理由や要因があったわけではなく、幼児期からの親の養育、対応も問題ありだろうが、心理的虐待と言うほどでもなさそうで、そんなに重症になる要因になるトラウマがあったとは思えない。

精神疾患としては軽度でも、今となっては不登校になり、そのまま引きこもりになったので、社会生活の経験はあまりに乏しいため、精神病理的には軽症でも、「社会的重症化、障害者化」したような感じである。
本人もそんなに自分が重症とは思えないようであるが、引きこもりから抜け出せない理由も良くわかっておらず、あまり自覚がない。
病院と買い物は特に抵抗もなく行ってるわけだし。

親がパワハラなどやっていれば、子供が知らなくても、そのこと自体が無意識のトラウマになる。実は、薄々とは気づいているケースももちろん多い。

生霊を飛ばされた?心霊現象、憑依現象

精神病理学的にはこのような言葉を使うべきではないが、いわゆる「生霊を飛ばされ憑依した」というやつである。
本人がそう言ってたわけではなく、ハッキリした認識もないが、それを納得しているようでもある。
父親が罪深いことをしたので自分が犠牲になるのはやむを得ない、というように。

オカルト的なことは私も嫌いだが、そのようにしか考えられない現象は確かにある。

心霊現象とされるようなオカルト的なことも、それなりの理由や根拠、背景があり、それを無視し、荒唐無稽なことと考えてはむしろ精神疾患は理解できず対処もできない。
「脳の病気」という誤解、信仰もとけず無駄なこと有害なことをやり続けてしまう。

心霊現象といったことも精神分析学的には無意識の心理として考えるべきで、同一の現象を別な見方をしているとも言える。
もちろん精神分析の方がはるかに学問的広がりも発展性もあり、臨床的、実践的にも有用だからこそ、私も心霊療法家ではなく(広義の)精神分析療法家となったのだが。
もっともオカルト的なことは嫌いだし、霊だの何だのといったことも嫌いだし、というよりよくわからないので避けていた。

やはり人の恨みをかうようなことはすべきではない。自分には返ってこなくても、自分の愛する者に影響してしまう。

オーラが見える!? オーラについて

オーラが見える!? オーラについて
 やっぱりオカルトとは思われたくないし、その前にオカルトって何でしょう?ってことにもなるんだけど。
 とりあえずウィキペデアから引用。
 オーラとは、生体が発散するとされる霊的な放射体、エネルギーを意味する。転じて、ある人物や物体が発する独得な、または霊的な雰囲気や、なんとなく感じる力、威圧感なども指す[1]。なおオーラという言葉は、「微風」「朝のさわやかな空気」を意味する[2]ギリシア語 α?ρα(アウラー、「風」「香気」「輝き」などを意味するラテン語の aura(アウラ)に由来する。

 というわけで、かなりいい加減というか曖昧に使われている言葉であるが、そのようなものとして認められるという人は多いだろうが、明確に認識している人は殆どいないだろう。後述するが「見える」という人も嘘をついているわけではないが、まやかしインチキっぽくなってしまうのはそれなりの理由がある。
 私はきちんと定義できない言葉を使うのは嫌いなので(もちろん誰にでも誤解なく通じる日常語は別)ここでも明確にしたいと思う。自分がわかってもいないことを書いたり話したりする気はないです。
 そうしたことは精神科医の得意分野ですが、私は精神科医ではありません。
「インディアン嘘つかない」←子供の頃、好きだっだ言葉。
 とりあえず私の定義では神経の発光現象である。ただし、神経そのものの発光なのか体の細胞が発光するのかは良くわからない。たぶん両方だろう。
 電球の明かりなどとはもちろん違って、光のスペクトラムには含まれておらず、科学的には同定されていない。したがって、科学的にはまだ証明されていないものであるが、伝え聞くところによると東大の某脳科学研究者が実験で見た、研究しているという話もある。
 それは期待しても良いのかもしれないけど、とりあえず特に関心はない。おそらく脳科学が精神疾患の治療に役立つことは、百年やそこらではないと思う。むしろ阻害になることが懸念される。
 オーラは輝き、光でもあるけど、引用にあるようにエネルギーでもあるかもしれない。これは発していることでもあるが、(宇宙から?)吸い込んでいるものでもあるように思える。これはそう考えるといろいろなことが説明できるのだが、エネルギーそのものが直接見えるわけでもないし、重力のように明確に示せるものではなく、今のところ私自身はきちんと同定しているわけではない。
とりあえずこう考えるとわかりやすいかもしれない。
生き生きとして健康的で意欲的に活動している人は「あの人は輝いている」と言われるけど、実際に輝いているように見える。
明るい人、暗い人というけど、やはり陽気で朗らかでにこやかでいる人は明るく見えるし、陰鬱で気分がふさぎ込んでいる人は暗くくすんだようにみえる。
昨今のアイドルグループなんか、そこらのおねぇちゃんを集めたようにしか見えなかったりするが、人気が出てきて皆から注目されるようになると精彩が出てきて、歌も踊りも急に上達したりする。
そうなってくるとスターというように輝いているように見えるし、街で人混みの中にいても、特別な存在、雲の上の人のように見えたりする。
グループを離れると人気が低下し往々にしてまた戻ってしまう…、アイドルに限らずタレント芸能人や政治家なんかもそういう人が多いけど。
 おそらく後光がさしているというのもそういうことで、昔の仏像やらキリスト教の聖画なんかも、見えたままを書いたり表しているのだと思う。
 そう言えば、昔ある女性に「すごい!、頭の上に天使のような輪っかが見える!」と言われたこともあるし、数多くの教祖様やら霊能力者とき会っているというオバサンに「何人もすごいオーラが出ている人を見たことがあるけど、貴方のような人は初めて見た。そういう人だからセラピーができるんですね。」なんて言われたこともある。
 しかし、生後数か月の赤ちゃんなんかにはオーラが見えているとしか思えない。先日も親戚が集まった時に、兄の孫も来ていたのだが、いつもこっちばかり見つめてくる。
布団に寝ころんでいても首を捩じって見つめてくるし、兄嫁が抱き上げても兄嫁とは顔を合わせようとせず、やはり首を捩じってこっちを見つめてくる。兄嫁(祖母)は元保母さんで子供の扱いも上手いのだが。
「なんでそっちばかり見るのかしら?」「俺のオーラが見えるからだよ」
 電車の中でも赤ちゃんは周りの家族よりもこっちの方を見つめてくるし、見つめ返しただけで泣き止む。
 こっちも健康的で気分よく、気力充実していないとダメだけど。
そうした感覚を残している人は大人になってからもオーラがハッキリ見えるのだろう。私の観察では3歳までには殆どの子がそれを忘れており、したがって体験を共有することもないが、たまにはオーラについて話す子供もいる。
 かなりの人が同様なことを体験していると思うけど…
 昔、学生の頃、昼飯を食べそびれて空腹のまま夜酒を飲んだが、金がないのでツマミも殆ど取らず、睡眠不足もあって体調は良くなかったが。
帰りの電車で気分が悪くなってきて、貧血のような感じで目の前が真っ暗。駅に着いたのはわかったので、とりあえず降りて休もうとしたらドアが開いたとたんに、ぶっ倒れてしまい…。
 大丈夫か?と両脇から抱えて起こしてくれた人がいたが、大丈夫ではないけど何とか「大丈夫です、すみません」と言ってホームに降り、ベンチで休もうとしたのだが。
 目の前は真っ暗なままで見えないのだが、人影だけは人物型に光って見えのるで人にはぶつからない。何とか手探りでベンチにたどり着いて休んだら、別に病気でもないし10分やそこらで落ち着いたけど。
 あの人型に光っているのがオーラかもしれないと友達に話したら(その頃は日常的には見えなかった)、友人(複数)は俺もそういうことがあった、やっばりそうかなんて納得していたけど。
 これも昔、若いころ自転車店で働いていた時のことだが…
 人の顔色を見て敏感にいろいろとわかる同僚がいた。別な同僚を朝出勤したときちらっと見ただけで、「彼は何かあったな。彼女にフラれたか」と言ったら、そのとおり昼休みにその話をしてきたり。客のことも見ただけで洞察が鋭い。
 こっちは鈍くて空気読めない奴だったのでそれが不思議で、多くの人はそう思わないだろうけど、敏感なのも鈍感なのも理由があるはずで、敏感になればいいと思った。
 「なんでわかるんだ」「まぁ、顔色なかな…、表情とか雰囲気もあるけど」「俺は色彩感覚は良いはずだけど」「顔色って言うけど色でもないんだよな」
こっちもだんだんわかるようにはなってきた。
 今の治療を始めて最初のころだから、20年以上も前のこと、その頃はまだハッキリとはオーラは見えない。
 ものすごく厚化粧の女性が来た。これじゃ、顔色を見ても良くなってきたことが確認できないな、と思ったのだが…、5回の治療を進めるにつれて一回ごとに、だんだんとハッキリ5段階で顔色が変化してくるのがわかる。やはり顔色は色だけではない。
 「お陰様ですっかり良くなって」
 最後にはほとんど化粧をしないできた。
 やはり自分の顔色を気にして、そうしないと外出するのに抵抗があり、ついつい塗りたくってしまうのであろう。化粧では顔色は隠せない。塗装も下処理や下塗りが大事だけど。
 たぶん自分の顔色の変化にはあまり気づいてはいないのだろうけど、行為・行動の面でも良くなるともちろん違っている。
そうしたこともあって私もだんだんハッキリわかるというか見えるようにはなってきた。
 要はオーラとはそのような人の輝き、光であり、それが肉眼でも見える、ということである。
 やり方・見方というか訓練の仕方については、治療を受けに来た人には教えますが、治療終了近くなってからです。やはり健康にならなくては輝いてこないし、感覚も良くならないと見えないので。
 「ワ~、すごいはっきり見える」という人も多いし、すぐにというわけにはいかなくとも、大抵の人は見えるようになると思う。
 治療ではこっちもオーラを見て神経の状態が良くなっているのを確認している。だから、一回目から効果があるのと言えるのだけど。前半であまり変化がないと、後半は時間をかけてやったり。もちろん当人が分かるかどうかは別問題である。
 ホントにキレイに輝いているオーラの出ている人は少ないです。自分の所に来た患者以外ではほとんど見ることはないです。(もちろん良くなってからです)
病気がすぐに治って健康になるというのはいろいろな面があり、そう簡単ではないですが、神経の状態自体は一般の人(並みの人)よりはずっと良くなるので。
 でもオーラの色がどうのという気はないし、見ようとも思わない。要するに輝きであって、そこにはやはり様々なスペクトラムがあり色もあるのだろうけど、色がハッキリ見えるわけではないし、むしろ見ないほうが良いと思っている。
 今まで経験した中では、政治家とかヤクザの親分みたいな人とか、輝きは強いんだけど、嫌~な感じのオーラが出ているのを見たことがある。色があるといえばあるんだけど、例えようもないような嫌な感じ。
 テレビに出てくるオーラが見えるという人たちも、それぞれが特定人物に対して同じ色が見えているのではなさそうだし、むしろハッキリわかる人は色のことは言わないようだ。
 これは霊視なんかにも言えることだが、最初は見えても段々と勝手に自分の主観で見てしまうのである。見えないものが見えるというのではないが、客観性を失って、脳内の視覚であって、実体が伴わなくても見えてしまう。自分の脳内プリズムを通して見てしまい、そのプリズムがどんなものかわからず、自覚もしていないような…。
 大事なことは目に見えず、些細なことを針小棒大に見てしまったり。何にでも言えることかもしれないが。
 霊能力がある、霊視、除霊をやる人もやはり同様な場合が多く、最初は嘘ではないのだろうけど、だんだんおかしくなってる場合が殆どである。特に金や名声などの欲が絡むとダメですね。リスクもあるので高額なお金をとりたくもなるのだろうけど。人間、特別な能力があっても謙虚にならなくしてはいけません。
 私は特別な能力があるわけではなく、精神疾患を少なくとも基本的には理解し(精神科医は誤解し)、治療法をもっているだけで、そうした人は精神科や臨床心理士や心理カウンセラーや自称セラピストなんかには、ほぼ皆無というだけのことです。
 したがって、オーラの色がどうのというつもりはないし、そうした見方をする気もありません。除霊・浄霊も狭義の憑依精神病の人にしかやりません。一般の精神疾患の人にはやってもあまり意味はないです。その時は一応すっきりしたりするけど。
 もっとも人間健康的になると、顔色も表情も目つきも皮膚の状態や姿勢や声なんかも違ってくるので、そうしたことからいろいろなこともわかるし、特にオーラが見えなくても治療はできます。実際に前述のように私は中々見えなかった方です。
 オーラなんか見えなくても、感受性や洞察力・観察力、それが伴った理解力を身に着け、向上させる必要があると思います。
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